新 座 談 大阪空港(伊丹)と金太郎金太
彩雲会 山内秀樹
(ソリッドモデル全国合同例会前夜祭で発表)
今や撮影名所となった大阪空港滑走路南端の千里川堤防だが、ここには大阪空港の2本の滑走路のうち32Lの南端がある。32Lは大阪空港拡張時に伊丹市岩屋地区の村落を南西方向の森本地区移転跡に新設されたものであり、本来の大阪空港の南端は現在32Rの南端にあたる伊丹街道(豊中市と伊丹市を東西に結ぶ府道)より北側にあった。空港拡張時に伊丹街道は新明和工業伊丹工場(その後全日空整備となる)の南側で空港敷地に新設されたトンネルとなって地下に潜り、滑走路の下を斜めに横切って伊丹市の伊丹スカイパークの北端に顔を出す。
さて、大阪空港南端の千里川堤防に立って滑走路32Lを見通し、その前方にそびえる山の左端は武庫川が大阪平野に流出する宝塚の谷、右側は大阪空港の西側を南北に流れる猪名川が大阪平野に流出する川西・池田の谷で、谷口集落の典型例として国土地理院の5万分の1の地形図が教科書や参考書に引用されていることで有名。その正面の山並みのほとんどは宝塚市に属し、東端は川西市に属するが、滑走路32L/32Rの延長上からやや右(東)に1,000mほど外れたほぼ山の峰に近いところに金太郎の墓がある。正確に言えば宝塚市の領域に囲まれた川西市の飛び地にある「万願寺」の境内に墓がある。
あの、童話や童謡で有名な金太郎だが、「むかしむかし、あるところに・・・」という架空の人物ではなく、956年5月に生まれた実在の人物です。身元もはっきりしており、父親は京都の藤原家の家臣、坂田蔵人。 母親は足柄山の彫刻師、重兵衛の娘で、京都で宮仕えをしていた八重桐。身ごもった八重桐は京都から足柄山の実家に里帰りし、金太郎を出産。ところが、不幸なことに坂田蔵人は京都で亡くなり、やむなく金太郎は母親の実家でシングルマザーに育てられた。その様子が童謡となり、
まさかりかついで きんたろう
くまにまたがり おうまのけいこ
ハイシィ ドウドウ ハイ ドウドウ
ハイシィ ドウドウハイ ドウドウ
あしがらやまの やまおくで
けだものあつめて すもうのけいこ
ハッケヨイヨイ
ノコッタ ハッケヨイヨイ ノコッタ
と歌われてきたが、その先の歌詞はない。従って金太郎がどのように成人したかについては多くの方がご存じなく、「金太郎のその後は?」という漫才ネタにもなっていた。
ここで登場するのが源頼光(よりみつ・941生-1021没)。平安時代、清和天皇の血を引く清和源氏で藤原道長に仕える重臣であった源頼光が974年4月、足柄山を通りかかり、19歳となり元服して坂田金時となった金太郎をリクルーティングし、清和源氏の一派、摂津源氏の本拠地である多田(金太郎の墓のある山の裏側、川西・池田の猪名川の谷筋を遡った盆地にある)に連れ戻り、渡辺綱(わたなべのつな)、碓井貞光(うすい・さだみつ)、卜部季武(うらべ・すえたけ)とともに四天王に据えた。
源氏と言えば、鎌倉幕府を開いた源頼朝を頂点とし、鎌倉を拠点とした鎌倉時代を連装されることが多いが、源氏は平安時代の歴代天皇の血を分けた皇族の末裔で、京都を中心とした機内が発祥の地である。清和源氏は大きく分けて、地域ごとに奈良盆地の大和源氏、大阪平野北部の摂津源氏、大阪平野東部の河内源氏の三つに分かれ、源頼光は摂津源氏に属し、多田(兵庫県川西市)に本拠を置いていた。ちなみに平氏にいじめられて一家離散の憂き目に遭い、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、源義経、木曽義仲等は、ご当地河内源治の流れを汲むもので、「源氏と言えば関東武士」の印象が強いが、もともとはここご当地の河内のおっさんの子供らでっせ!ただしそれは金太郎が活躍したころから150年ぐらい後の話。
さて、その金太郎の話に戻すと、大江山(京都市西京区大枝付近)を本拠に京の都を荒らす賊の首領である酒呑童子を討伐せよとの勅命を受けた源頼光は坂田金時をはじめ四天王を率いてこれを征伐。酒呑童子の首を刎ねた血刀を洗った水を汲んだという井戸が多田神社境内にあり、都で首実検の後酒呑童子の首は宇治の平等院(10円玉の裏側)の首塚に葬られた。
酒呑童子の首を刎ねた刀は「血吸」あるいは「鬼切」と呼ばれる名刀で、本来坂上田村麻呂が刀工大原五郎太夫安綱(おおはらごろうだゆう・やすつな)作らせてもので、鈴鹿御前の戦いに使用後、伊勢神宮に納められ、後に源頼光が参宮した時に下賜されたもの。以後、室町時代には足利将軍家が所蔵、足利義明から豊臣秀吉に、さらに徳川家康、徳川秀忠、松平光長を経て松平家が所有。昭和26年(1951)に国宝に指定され、昭和37年(1962)以降は東京国立博物館が所蔵。
坂田の金時と並んで頼光の四天王の一人、渡辺の綱は酒呑童子の部下の茨木童子の腕を一条戻り橋(陰陽師、安倍晴明を祭る生命神社の近く)で切り落とした。この話は「羅城門」の説話になったり、宝塚歌劇で演じられたりしたが、諸説あり。しかし、その刀も「髭切(ひげきり)」と呼ばれる名刀で、この一件以降「鬼丸」とも呼ばれた。以後数々の名称で呼ばれたが、源頼朝が「髭切」に名前を戻して源氏復興の戦いに寄与。明治13年(1880)に京都の北野天満宮に奉納され「鬼切丸、別名髭切」として宝物館に保管されている。
坂田金時は1012年1月11日、中国地方の賊討伐に出征中に死亡。享年55歳。ちなみに親分の源頼光は1021年に81歳で亡くなっている。
桃太郎はフィクションだが、金太郎はノンフィクション。大阪空港の写真を目にした時は想い出していただければ幸甚です。
(完)
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