HOME  SITEMAP 日替わりメモ 大阪府目次 大阪国際空港総目次  TOP
     
     
 

写真で見る大阪国際空港の歴史 History of The Osaka International Airport seen with a photograph


写真で見る大阪国際空港の歴史 空撮と前史

 

このページ

前 史

 

飛行場空撮 大阪空港 1555〜2006
空港事務所発行の俯瞰イラスト
大阪空港前史 大阪第二飛行場〜Itami Air Base
 座談  大阪空港(伊丹)と金太郎  山内秀樹
 大阪国際空港1950年代の歴史
   大阪国際空港1960年代の歴史 
 大阪国際空港1970年代の歴史 
 大阪国際空港1980年代の歴史 


 

飛行場空撮 大阪空港 伊丹空港 空撮

           滑走路 32R 14L 1828×45m
         滑走路 32L 14R 3000×60m 

撮影1955年頃 提供 関西航空史料研究会 碇 紀夫

中央は新明和興業伊丹工場(1954年開設)、右上は米駐留軍宿舎
 

撮影1960年頃 提供 関西航空史料研究会 碇 紀夫

  

撮影1975年頃 提供 関西航空史料研究会 碇 紀夫

1970年に3000m滑走路完成 1971年末新明和工業建物は全日空整備に譲渡
 

撮影2004/01/03  NAYER

撮影2016/08/21 JAL290 ボーイング737-800 JA337J 古谷眞之助
 

 県境がど真ん中を横切っている飛行場、それは大阪国際空港です。空港案内の表示がJALは大阪伊丹、ANAは大阪(伊丹)で大阪府(ニュアンスとしては大阪市の意味が濃い)と兵庫県伊丹市の固有名詞が使われています。大阪関空との識別という意味もありますが、大阪あるいは伊丹のどっちを落とすこともできないジレンマがあります。

 大阪国際空港ターミナルビルの表示は豊中市蛍池西4丁目となっています。

 伊丹市は滑走路の約三分の二を市域で占めており、伊丹を誇示するためとまでは言いませんが、エアフロントオアシス下河原(掲載済み)と伊丹スカイパークで滑走路を包むようにしています。

 池田市は国際線ターミナルから北側が市域で、町名も空港1丁目、2丁目としています。そのものズバリです。

 豊中市は国内線ターミナルから南の貨物地区や滑走路部分が市域です。町名や市施設に特に飛行場を意識したものは見当たりません。ターミナルビルの登記が豊中市になっている余裕でしょうか。

 この飛行場は、本来、大阪市木津川河口の飛行場が手狭になったため大阪第二飛行場として建設されたものです。ですから、大阪府民としては大阪飛行場です。しかし、土地が伊丹であるために伊丹飛行場と名づけられ、占領軍もITAMI AIRBASEとしました。伊丹市民にしてみればわれらの飛行場です。大阪府民にとっても、中身は大阪市、豊中市、池田市、更には騒音区域にまたがる周辺市町の利害が時には一致し、ときには紛糾します。

 全く、やっかいな飛行場です。空港長は両府県知事と市長らに平等に接しなければなりませんから、その気苦労は大変でしょう。どこが県境やら市境やら分からぬ密集市街地の中に横たわる大阪国際空港(伊丹空港)を空から見ながら、ため息が出 ます。 (2008/05/17佐伯)      

 

イラスト

2004/09/25 空の日行事のパンフレット  吉田家

 

前史  制作 高田和彦        前史
1936(昭和11) 兵庫県川辺郡神津村の農地が買収され、飛行場の建設工事が始まる。

大阪第二飛行場及び付近一般図

国立公文書館所蔵 撮影2017/05/30 翔べ日本の翼展にて 佐伯邦昭



 

1939(昭和14) 民間の「大阪第2飛行場」として開港。 (第1は計画倒れに終わり、未完成のまま)              神津村が川辺郡の中心都市伊丹町に付属する地域だったので、当初から「伊丹飛行場」と呼ばれた。

滑走路830b、空港面積6万坪。

すぐさま軍用飛行場に転用された。

1940(昭和15) 拡張工事が進展。
1945/03/19 グラマン(米軍戦闘機)延べ120機の機銃掃射を浴びる。
1945/09/12 連合国軍が接収。米軍基地化 ITAMI AIR BASEと呼称。 


Itami Air Base時代の飛行場施設図



 @ オレンジ:昭和141月の「大阪第二飛行場」範囲
 A ピンク:昭和1510月の逓信省による拡張時
 B 水色:昭和20年の陸軍による拡張

 A(青線):滑走路
 B(青点):延伸中だった滑走路
 C(黄塗):本部、居住区
 D:大型掩体壕
 E:隊内弾薬庫 

 

新 座 談  大阪空港(伊丹)と金太郎金太

                             彩雲会 山内秀樹  (ソリッドモデル全国合同例会前夜祭で発表)

 

 今や撮影名所となった大阪空港滑走路南端の千里川堤防だが、ここには大阪空港の2本の滑走路のうち32Lの南端がある。32Lは大阪空港拡張時に伊丹市岩屋地区の村落を南西方向の森本地区移転跡に新設されたものであり、本来の大阪空港の南端は現在32Rの南端にあたる伊丹街道(豊中市と伊丹市を東西に結ぶ府道)より北側にあった。空港拡張時に伊丹街道は新明和工業伊丹工場(その後全日空整備となる)の南側で空港敷地に新設されたトンネルとなって地下に潜り、滑走路の下を斜めに横切って伊丹市の伊丹スカイパークの北端に顔を出す。

 

 さて、大阪空港南端の千里川堤防に立って滑走路32Lを見通し、その前方にそびえる山の左端は武庫川が大阪平野に流出する宝塚の谷、右側は大阪空港の西側を南北に流れる猪名川が大阪平野に流出する川西・池田の谷で、谷口集落の典型例として国土地理院の5万分の1の地形図が教科書や参考書に引用されていることで有名。その正面の山並みのほとんどは宝塚市に属し、東端は川西市に属するが、滑走路32L/32Rの延長上からやや右(東)に1,000mほど外れたほぼ山の峰に近いところに金太郎の墓がある。正確に言えば宝塚市の領域に囲まれた川西市の飛び地にある「万願寺」の境内に墓がある。

 

 あの、童話や童謡で有名な金太郎だが、「むかしむかし、あるところに・・・」という架空の人物ではなく、9565月に生まれた実在の人物です。身元もはっきりしており、父親は京都の藤原家の家臣、坂田蔵人。 母親は足柄山の彫刻師、重兵衛の娘で、京都で宮仕えをしていた八重桐。身ごもった八重桐は京都から足柄山の実家に里帰りし、金太郎を出産。ところが、不幸なことに坂田蔵人は京都で亡くなり、やむなく金太郎は母親の実家でシングルマザーに育てられた。その様子が童謡となり、

 

まさかりかついで きんたろう くまにまたがり おうまのけいこ
ハイシィ ドウドウ ハイ ドウドウ ハイシィ ドウドウハイ ドウドウ

あしがらやまの やまおくで けだものあつめて すもうのけいこ
ハッケヨイヨイ ノコッタ ハッケヨイヨイ ノコッタ

 

と歌われてきたが、その先の歌詞はない。従って金太郎がどのように成人したかについては多くの方がご存じなく、「金太郎のその後は?」という漫才ネタにもなっていた。

 

 ここで登場するのが源頼光(よりみつ・941-1021没)。平安時代、清和天皇の血を引く清和源氏で藤原道長に仕える重臣であった源頼光が9744月、足柄山を通りかかり、19歳となり元服して坂田金時となった金太郎をリクルーティングし、清和源氏の一派、摂津源氏の本拠地である多田(金太郎の墓のある山の裏側、川西・池田の猪名川の谷筋を遡った盆地にある)に連れ戻り、渡辺綱(わたなべのつな)、碓井貞光(うすい・さだみつ)、卜部季武(うらべ・すえたけ)とともに四天王に据えた。

 

 源氏と言えば、鎌倉幕府を開いた源頼朝を頂点とし、鎌倉を拠点とした鎌倉時代を連装されることが多いが、源氏は平安時代の歴代天皇の血を分けた皇族の末裔で、京都を中心とした機内が発祥の地である。清和源氏は大きく分けて、地域ごとに奈良盆地の大和源氏、大阪平野北部の摂津源氏、大阪平野東部の河内源氏の三つに分かれ、源頼光は摂津源氏に属し、多田(兵庫県川西市)に本拠を置いていた。ちなみに平氏にいじめられて一家離散の憂き目に遭い、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、源義経、木曽義仲等は、ご当地河内源治の流れを汲むもので、「源氏と言えば関東武士」の印象が強いが、もともとはここご当地の河内のおっさんの子供らでっせ!ただしそれは金太郎が活躍したころから150年ぐらい後の話。

 

 さて、その金太郎の話に戻すと、大江山(京都市西京区大枝付近)を本拠に京の都を荒らす賊の首領である酒呑童子を討伐せよとの勅命を受けた源頼光は坂田金時をはじめ四天王を率いてこれを征伐。酒呑童子の首を刎ねた血刀を洗った水を汲んだという井戸が多田神社境内にあり、都で首実検の後酒呑童子の首は宇治の平等院(10円玉の裏側)の首塚に葬られた。

 

 酒呑童子の首を刎ねた刀は「血吸」あるいは「鬼切」と呼ばれる名刀で、本来坂上田村麻呂が刀工大原五郎太夫安綱(おおはらごろうだゆう・やすつな)作らせてもので、鈴鹿御前の戦いに使用後、伊勢神宮に納められ、後に源頼光が参宮した時に下賜されたもの。以後、室町時代には足利将軍家が所蔵、足利義明から豊臣秀吉に、さらに徳川家康、徳川秀忠、松平光長を経て松平家が所有。昭和26(1951)に国宝に指定され、昭和37(1962)以降は東京国立博物館が所蔵。

 

 坂田の金時と並んで頼光の四天王の一人、渡辺の綱は酒呑童子の部下の茨木童子の腕を一条戻り橋(陰陽師、安倍晴明を祭る生命神社の近く)で切り落とした。この話は「羅城門」の説話になったり、宝塚歌劇で演じられたりしたが、諸説あり。しかし、その刀も「髭切(ひげきり)」と呼ばれる名刀で、この一件以降「鬼丸」とも呼ばれた。以後数々の名称で呼ばれたが、源頼朝が「髭切」に名前を戻して源氏復興の戦いに寄与。明治13(1880)に京都の北野天満宮に奉納され「鬼切丸、別名髭切」として宝物館に保管されている。

 

 坂田金時は1012111日、中国地方の賊討伐に出征中に死亡。享年55歳。ちなみに親分の源頼光は1021年に81歳で亡くなっている。

 

 桃太郎はフィクションだが、金太郎はノンフィクション。大阪空港の写真を目にした時は想い出していただければ幸甚です。

(完)