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関東・東海遠征記

 

目 次

発表日
1日目
(1)  プロローグ IBEXのCRJ 05/04/29
(2)  成田 航空科学博物館
(3)  潟Wャムコ東京整備工場
2日目
(4) 京急電車と金沢文庫  05/05/03
(5)  日本海軍発祥の地
(6)  ダイエー横須賀店
(7)  横浜海軍航空隊隊門と大格納庫
(8) 飛行機屋 
(9) 釣船あさなぎ丸 

3日目
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(10) ヘリコプター歴史保存協会 05/05/10
(11) 桶川 ホンダエアポート
(12) ダ・ヴィンチの夜

4日目
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(13) 靖国神社遊就館 05/05/12
(14) 国立科学博物館
5日目
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(15) 浜松駅のバスストップ 05/05/14
(16) 航空自衛隊浜松基地見学
(17) 浜松広報館エアーパーク
(18) エピローグ 新幹線で広島へ

関東・東海遠征記 3日目


(10) ヘリコプター歴史保存協会

   全文を埼玉県A3312へ転記しました 2005/09/10

 

(11) 桶川 ホンダエアポート

  ホンダエアポートは、ここのクラブで飛行を楽しんでいるJO1RBOさんの紹介で訪問しました。あいにくJO1RBOさんは仕事で来れませんでしたが、本田航空渇c業部の岸 香織チーフに親切に格納庫を案内していただきました。

 ビーチクラフトA36を整備中の鈴木友則整備課長さんにいろいろとお話しを聞きながら撮影させていただいたホンダの当日オールスターキャストは次のとおりです。

ビーチクラフトA36 JA4111 セスナ208 JA8212
セスナ172RG JA3881 エアロスぺシアルAS365N2 JA01HA
エアロスぺシアルAS350B JA72ND エアロスぺシアルAS350B JA9438
ロビンソンR22 JA7972   
 

 

 

 本田航空の事務所と格納庫は、埼玉県防災航空格納庫と並んで荒川の堤防土手を降りたところにあります。見学を終えて出てみると、昨日宮城県の霞目駐屯地記念行事に出演していたFA200が帰って きたところでした。

 ヘリポート兼用のエプロンであり、何かに牽引されて堤防を越してきたのかと尋ねますと、岸チーフは涼しいお顔で「いいえ、自力で越してきます」とのお答え。FA200の上に見えている舗装道路を通ってハンガーと河川敷のエプロン滑走路を往復するのだそうです。

 日本広しと言えども、パイロットが自動車の如く運転して坂を上り下りする飛行場はここだけではないでしょうか。(航空法施行規則にいう誘導路の最低基準は幅6m以上で縦断勾配は3%以内となっていますから、これは明らかに誘導路ではありませんね。)

富士FA200 JA3947 堤防から見るヘリポート 本田航空と埼玉県防災航空の格納庫

 我々もその一種の飛行機道ともいうべき堤防横断道路を自動車で通ってかの有名な桶川飛行場ーホンダエアポートへ行きました。
 約100m先にツエッペリンNT号が整備中でした。

 ツエッペリンNT号については、8日後に広島市で再び対面し、真下まで行って詳しくお話を聞 き航空歴史館総目次48へまとめておりますので、そちらをご覧ください。

 飛行船繋留地の向かって右遠方には小型機の駐機場も見えましたが、時間も遅くなったので省略しました。それにしても、この荒川河川敷は広いです。川幅は約800mくらいでしょうか。水面の幅は、その10分の1くらいですから、広々とした地面の上に滑走路、エプロン、繋留場、バイク競技場などいろいろなものがつくられるわけです。

 こういうのは、やはり現地で実感するのが一番です。

 

 

(12) ダ・ヴィンチの夜

 さて、埼玉県内の視察を済ませて、再び関越道へのって一路東京へ帰ってきました。めざすは、ヒコーキ屋さんたちの歓談の場ダ・ヴィンチです。

 焼き鳥屋多しといえども、航空の模型や写真や書籍がいっぱい置いてある店はここくらいのものでしょう。左に見える本は『空へのチャレンジ』です。図書室18で紹介した著者の藤浪 修さんはここのマスターです。

  いつ行っても、ヒコーキの素人つまり航空関係の現場にタッチしたことがないのは佐伯1人ですが、皆さんそんなことにはお構いなく付き合ってくれるのがうれしいです。その上、シラフでは教えてもらえないような航空内緒ばなしも飛び出しますが、いずれ劣らぬ呑み助ばっかりで、翌朝にはなにも覚えていないのがお笑いですけど‥。

 インターネット航空雑誌ヒコーキ雲の閲覧者といえば、きっと歓迎してくれますので、皆さん気軽に立ち寄ってみてください。 昼定食も始めています。

 焼き鳥ギャラリー ダ・ヴィンチ
 
東京都港区芝大門2-1-1 第2境野ビル2F 電話03-5733-6921

4日目

関東・東海遠征記 4日目


(13) 靖国神社遊就館

  昔、私が或るポストに就いたときに友人が有冶人 無冶法と書いた額を贈ってくれました。荀子(じゅんし)君道篇の一節で、要は『世の中は人が治めるのだ、法を楯にとって威張るなよ』という私に対する戒めであったと思います。

 靖国神社遊就館の遊就も荀子勧学篇から採ったもので『高潔な人物に就いて交わり学ぶ』の意味だそうです。訪れるのは二度目で、3年前の改装によってすっかり変わった館内で先人たちの事蹟に触れてきました。

 遊就館の事博物館としての意味については、 戦争で散った軍人の慰霊及び近代史を展示物などで紹介する点において、江田島の教育参考館、鹿屋の史料館をはじめとして各自衛隊基地内の資料館(室)も多かれ少なかれ規を一にします。呉の大和ミュージアムでも同じ感じを受けますし、具体化しつつある入間基地の新修武台記念館も多分そうなるのでしょう。

 遊就館だけが特別ではありません。ただ靖国神社境内にあるということ だけです。靖国神社問題をここで論じるつもりは ありません。ただ、歴史派マニアの一人として明治時代から蒐集されてきた膨大な史資料はやはり必見の価値があるということを申し上げておきます。

 

撮影許可は貰ったものの

 このたびの訪問の大きな目的は、彗星と桜花を撮影することでした。壱岐博嗣展示課長さんにインターネット航空雑誌ヒコーキ雲の趣旨を述べてお願いしたところ、快く許可をいただき、腕章も貸していただいたのです。

 さっそく大展示室へ急ぎ、横から上からと写したつもり‥ でしたが、帰広して現像してみると、嗚呼、数枚しかない、靖国へ来る前に国立科学博物館で撮ったラバウル零戦もない、デジカメもそこを飛ばしたように映像が無い。

 九州旅行記でも、鹿屋の零戦の前で観覧中のご婦人から注意された話を書きましたが、彗星の前でも、やはり観覧中のご婦人から撮影禁止でしょうと注意されました。そして同じように撮影に失敗している。これは、もう黄泉(よみ)の国から指令が来ているとしか解釈のしようがないです。

 やむを得ず、某氏から頂いた写真を使わせて頂くことにしました。時期的には改装前の大展示室での写真ですが、彗星も桜花も機体は同じことです。

艦上爆撃機 彗星 (現在は大展示室が改装されて2階デッキからも観察可能)
桜花レプリカ (現在は天井から吊り下げ展示)

 なお、知ってか知らずか展示室で写真を撮っている人はいます。撮影禁止の趣旨は、遺影や遺書などプライバシーに触れるものが流れて、関係者の感情を逆なでするからということで、これは、翌日訪れた浜松基地資料館でも言われました。こういう施設ではきちんと許可を取った上で節度をもってレンズを向けたいものです。

 さて、その時は撮影に失敗したとも気付かず、悠々と館内展示を見て回り、映画「私たちは忘れない」と「明治天皇と日露大戦争」を見たのであります。

 「明治天皇と日露大戦争」は、嵐寛寿郎明治大帝がおごそかに「東郷 頼むぞ」と藤田進連合艦隊司令長官に言葉をかけるシーン、 ロシア国歌を合唱しながら沈み行く艦と運命をともにする士官や水兵のシーン、48年前に新東宝飛躍のきっかけになった大作で、何度見てもいいですね。

 

展示コンセプトの完成度は高い

 靖国神社遊就館は、百年以上の歴史があります。その蓄積によるものでしょうか、観覧の動線、展示の方法、明るさ、説明文字の大きさ等々どれをとっても非常に優れています。軍事や宗教の問題は別にして、すべての博物館は、ここの展示コンセプトから学ぶべきことが多いように思います。

 

 

 

(14) 国立科学博物館

  国立科学博物館は、恐竜展という特別展で大賑わいでした。もっとも、私はぜんぜん興味がないので通常料金の500円で2階の零戦だけを見て、その他は覗きませんでした。

 ラバウル零戦については東京都A3630に 日本への帰還当時から最新までの写真と経緯を出しておりますので、重複は避けます。

 科博の説明では、「主翼、エンジン、胴体の各部分を補修し、ほぼ完全な姿に」ということですが、1974年ごろ撮影という調布の写真を見ると、果たして補修という程度のことで済んでいるのかどうか疑わしいし、どのような考証がなされたのかわかりませんが、一応信用しておきましょう。

ミュージアムショップで売っている科博所蔵品再現モデル 900円 たこつぼのような後席

  ミュージアムショップで売っている科博所蔵品再現モデルは、その名のとおり展示台や説明装置までそっくり再現してあります。キャノピーを取り外すと、 計器板や世界で唯一の偵察員席が現れます。ただし長さ15mmの穴倉ですから、こうやって写真で拡大してはじめて、たこつぼのような後席を確認?できます。

 

忙しすぎる学芸員さん 

 ここの展示コーナーは、B 身近な科学 4 近代化の成果 N 航空技術の発展 という分類になっています。零戦のほかに飛行機らしいものはYS-11の風洞模型とその他というわけで、青少年たちにこれだけで航空技術の発展を勉強しなさいとは恐れ入りました。

 かなり前に、萱場のラムジェットのエンジンを作ったという石川島の先輩が来場して、ラムエンジンでない得体の知れない物体の方にラムジェットエンジンの説明がつけてあるのを見て、かんかんに怒って帰ったそうです。ボランティアガイドさんが驚いてすぐに文書で館側へ上申したそうですが、何ヶ月たっても直してくれないと嘆いています。

 私も零戦の展示のあり方について私見を申し上げましたが、無駄な努力ということを知るだけでした。

 原因は、2階フロアのB 身近な科学を担当する学芸員が1人しかいないためで、江戸から現代に至るあらゆる科学分野を見せようとするのですから、工作機械や電気電子技術などの方に手をとられて、たかが零戦やラムジェットエンジンにかかわっている暇はないのです。展示業者に、よきに計らってくれたまえという程度の指示しか出せないみたいです。

 文部科学大臣さん 仮に外国のヒコーキマニアにJapanese National Aearo Science Museumを案内せよと言われたら、私は断りますからね。せめて、N 航空技術の発展という看板だけでも下ろしていただけませんかね。恥ずかしいです。

 呉市の大和ミュージアムへ行くと、戦艦大和の造船技術が戦後の産業技術に与えた影響というのを各展示物毎にくどいほど強調してあります。そこまでやれとは言いませんが、「発展」を見せるのが博物館のひとつの使命であるならば、国立科学博物館は航空科学技術史を一から勉強しなおして貰わなければなりません。

 このままではラバウル零戦が泣いているし、いや、日本文化が泣いておりますぞ!

 

 

 さて、靖国をほめて、上野は苦言だらけになりました。読み返してみても間違っているとは思いませんが、疲れますね。

 疲れた足をひきずって神保町の文華堂書店(軍事史、武器、各種乗物専門の書店)へ行きました。

 上野の学芸員さん、恐竜模型1匹分の予算があれば文華堂のめぼしい航空古書が相当買えると思いますが、割いてみませんか。

 という訳で、東京探訪も終わり、ひかり号で浜松へ向かい、駅前のホテルに投宿。近所の居酒屋で明日のお天気を気にしながら、久保田という、中越地震で壊れた酒蔵の銘酒と山菜てんぷらで疲れをいやしました。

 なぜか、その店にはうなぎを置いてなかったのです。 せっかくの浜松の夜でこれは失敗でした。

 

関東・東海遠征記 5日目最終日


(15) 
浜松駅のバスストップ

 浜松駅前広場はよく整備されていて駅ビルの地下通路から上ると、半円形のバスターミナルに停留場が並び、朝8時ごろ、通学ラッシュ時にあたって大量の学生生徒さんが、次々にやってくるバスで各方面へ手際よく運ばれていきます。遠州バスの待合所兼案内所もあってサービスは 良好です。

 案内所にもバスの中にも、「Nice Pass」の説明がやたら目につくので注意してみていると、カードを器械にさっと当てるだけでOKのプリペイドカードでした。バスカードやオレンジカード のように入れてから出てくるまでの、あの一瞬ですが、ひょっとして出ないのではという恐怖感がありません。

 これは、各地で普及しているのでしょうか。

 便利といえば、19日に東京でタクシーに乗り、あいにくと私も運転手さんにも小銭がなく、どこかコンビニエンスストアでもあればと走って貰っても、こういうときに限り見つからないで困っていたら、お客さんカード持っていますか?とのこと。何のことはないタクシーもカード支払いができる世の中になっていたのですね。

 ただし、レシートが出てくるまでに時間が掛かるし、サインも必要です。タクシーも「Nice Pass」にしてくれたら、サッとかざしてサッと降りる、交通渋滞解消に何パーセントか貢献しますけどね。

  さて、航空自衛隊浜松基地の見学は、自衛隊広島地方連絡部を通じてお願いし、9時に正門へ来るように指示を受けていました。また、あらかじめRENATさんに基地までの交通手段を教えてもらっていたので、 遠州バス和合西山行きに乗って約25分、スムーズに正門前に着きました。

 

 

(16) 航空自衛隊浜松基地見学

 正門と構内の受付で二度同じ用件を述べ、小さな待合所に座っておりますと、浜松基地第1航空団司令部監理部渉外室広報班の逢坂(おうさか)悟さんがお見えになり、名刺交換をしました。

 広島の地連で申し込んだときは、ちょうど団体の見学が予定されていたので、その中に加えていただけば団体秩序を乱さないようについて歩きますと約束していたのですが、そんな気配はなく、1対1 の応対でした。しかも逢坂さんから「佐伯さんのホームページは見ていますよ」とうれしいお言葉が出ます。

 1空団広報には、これまで少々きついメールも出しており、この際丁重にお詫び申し上げましたが、「いえ、あの辛口がいいんです」と。ありがとうございます。

 見学コースは、まず、陸軍爆撃隊発祥乃地碑をみて、昔の隊舎を利用した資料館へ入ります。

 

浜松基地資料館

 基地ホームページには数千点の資料とありますが、ほんとうに80年前に飛行第7連隊が設けられてからの歴史が写真や遺物でびっしりという感じで す。半日やそこらで探索できるボリュームではありません。こういう場合は、初見でざっと見て歩いてポイントを覚えておき、もう 一度訪れて重点的に見るということをしないとだめですね。

 やむを得ないので、歴史的価値があるようだと思えてもパネル写真や図版はパスして、とにかく航空機に関する実物の写真を撮ることに専念しました。その中から幾つか載せておきます。

初風エンジン

 

 空冷倒立直列4気筒で、わずか110馬力のエンジンです。 戦後国産第1号の立飛R-52にのせた同系統の神風でも150馬力でしたから、いかにも小さいです。

 これを搭載した陸軍キ86 4式基本練習機は、昭和18年から日本国際航空工業鰍ナ製作され、陸軍の初等練習機としては最も多い1030機も生産されていますので、 初風エンジンも当時ではかなりポピュラーであったと思われます。

羅針盤

 左側の九七重羅針盤とあるのが、調研コーナー41で問題にした赤石岳墜落機関連です。下記回答のように明確に否定され、逢坂さんも同じ答えを繰り返されました。


浜松基地HPをご覧いただきましてありがとうございます。ご質問の件ですが資料館で調べましたところ、

第1点
 赤石岳から残骸を撤去した事実は確認出来ませんでした。またどこの部隊が作業しどこへ運ばれたかも判りませんでした。
第2点、
 資料館には石碑の情報はありません。
第3点
 資料館に展示してある九七式重爆の羅針儀は、群馬県に住む元62戦隊の方から寄贈された物です。寄贈者が何処で入手したかは記録が残っていないので判りません。

 以上です。                             航空自衛隊1空団広報班

 赤石岳墜落機残骸の行方は未だに謎のままですし、旧軍のエンジンといえば、最近複数の方からの情報で、松島基地格納庫の改修工事でどうも97式重爆のものらしいエンジンが発掘されたということです。重爆の基地であった浜松に関係がありそうに思いますので、なにか分かれば教えてほしいですね。

木製プロペラ

プロペラはたくさん蒐集されている どこのマーク?
川崎造船所航空機工場製プロペラ 先端保護のチッピング 材質は不明

 左上のように、プロペラの収集品がかなりあります。佐貫先生がご存命なら、引っ張って行って細かにご教授願いたいところです。今どき、こういうものに興味を持つ先生はいないでしょうね。もっとも佐貫東大学生の時代もプロペラを教える教授はいなかったそうですが。

 左下のボスの文字ですが、「川崎‥プロペラ T-58090 三型一号 BMW 二型 昭和9年8月 川崎造船所航空機工場」というように読めます。また、 所々の剥離具合からみて、セルロイド皮膜の被包式プロペラではないかと思われます。各務原市白山神社に奉納されているプロペラ岐阜県A4412と同系かもしれません。

 いずれにしても、プロペラは写しにくくて、まともなアングルやシャープなものがひとつもありません。どなたか1本ずつじっくりと写してきて頂けませんかね。

零戦の木製落下タンク 秋水のロケット燃料の陶製容器

素晴らしい1/50模型

  零戦の木製落下タンク(間違っていたらご免なさい)や秋水の液体燃料を保存する容器も珍しいですが、ここの展示室で是非とも紹介したいのは、 西村コレクションです。

 日本の歴史をもの語る航空機がオール50分の1のソリッドモデルで約190機ずらっと並んでいます。 西村得之という方が十数年かけて集めた資料をもとに専門家に製作させたということで、プロペラのピッチ方向に至るまできわめて念入りに工作されています。

 名古屋航空宇宙館にあった田中祥一さんの名機百選(25分の1)に匹敵するものだと思います。浜松基地にはわるいですが、 基地から出して、もっと気軽に見られる場所で常時一般公開 ということになれば、コレクションの価値が倍増するだろうにと思います。手っ取りばやく浜松広報館エアパークなど如何なものですかね。

 

F-15Jの整備見学

 資料館の次はF-15J整備格納庫の見学です。この日は#919、#917、#873の3機が入庫していました。尾翼には第1術科学校のマークを描いていますが、一線部隊の機体でオーバーホールの時期が近づいたものを持ってきて整備訓練に当てるのだそうです。

 つまり、一線部隊→第1術科学校整備訓練→三菱重工業IRAN というコースです。

整備訓練中の第1術科学校所属F-15J 富士T-7も配備されている



用途廃止の機体

ノースアメリカンT-6G 52-0074 ロッキードT-33A 71-5254
ロッキードT-33A 61-5207 富士T-1B 左25-5855 右25-5854 

 浜松訪問の大きな目的が用途廃止機の消息調べで、ここに載せた4機を確認しました。平日のため短時間でこの場所へ往復しなければならないため、写真を撮るだけで精一杯でした。T-6とT-33Aはまあまあの状態で、希望すればどこへでも展示可能という印象で す。

 T-1Bのそばへは寄れませんでした。ゴールデンウイーク後の情報では、両機とも日の丸や番号がグレイで塗りつぶされたそうですから、そろそろ解体売却処分の運命でしょう。

 なお、基地内を歩いている間にも、ボーイングE-767早期警戒管制機が飛び立ちましたが、雨の中で私の腕では撮影不能でした。 最近マーキングを変えているそうです。

 

第1航空団の栄光は‥

 以前は、浜松北基地と南基地に別れて、1本の滑走路を共有していました。今は浜松基地として統合されています。随分広いように感じますが、陸軍航空隊時代の飛行場からみると半分の面積になり、 かなり手狭になっているそうです。

 南地区だけでの感想では、航空自衛隊第1航空団という輝かしいネーミングの割には、建物の多くが術科学校であり、実戦部隊も警戒管制航空隊ということで何となく違和感があります。

 歴史の有為転変の中での一こまに過ぎないとは思います。

 しかし、航空団発祥の地として、源田実さんたちが希望を持って空に舞い上がり、あるいはブルーインパルスを生み出した浜松第1航空団の面影を、すくなくとも南側正門地区で見出せないのは淋しいです。

 終わりに、自衛隊基地内に設けた店舗としては、ここだけというセブンイレブン(結構売り上げが多いそうです)を横目に見て、逢坂さんと別れたのであります。

 

(17) 浜松広報館エアーパーク

 非情にも基地を出たところで雨足がつよくなりましたが、浜松広報館まで歩いて10分と聞いていたので、もう少しの我慢とばかり、車のしぶきをよけながら歩きました。 しかし疲労の限界にきていたのでしょうか、30分近くかかりました。

 浜松広報館の1階から3階までと展示格納庫を見るにはみました。でも、航空史探検博物館の広報館ページと 、解説をお願いしているねこまた重工さん以上の発見はありませんでした。

 一番見たかったF-86Fの操縦席が立ち入り禁止で、それでも ロープを寄せてもらって写真を撮りましたが、なにやら嫌な顔をされ、意思が通じそうもないのであきらめました。F-86Fのネームプレート探しはお預けです。

 3階喫茶コーナーでは、軽食を食べながら滑走路の観察ができます。この時はT-4が着陸して北地区へタキシーしていったくらいで閑散としていました。 喫茶コーナーもウエイターが暇を持て余していましたよ。

 同じく3階ライブラリーには、各地連の新聞が集められており、丹念に読むと思わぬ発見があるはずですが、短時間では見きれませんでした。航空関係や戦史ものの単行本と雑誌もかなり揃っています。ただし、私が座っていた40分間に、入ってきたのは1人だけでした けど。

 

 

(18) エピローグ 新幹線で広島へ

  浜松広報館エアパークは交通の便がわるいです。マイカー以外では行かない方がいいと思います。それを骨の髄まで感じながら雨の中を20分歩いて最寄のバス停へ、そしてJR浜松駅へと帰り着きました。

 昨夜食いそびれたうなぎを駅の食堂で食べ、地下のマーケットで蒲焼の土産を買い、下りのひかりへ乗りました。運悪く、大声高笑いの8人連れのおばさんの近くの席になり、こういう時はビールを飲んでも眠れないですね。
 ブスデブ御一行メ!と腹の中で憎まれ口を叩いているうちにお互いに名古屋で下車、ブスデブ御一行サマはホームを降りていきました。

  JRのジパングクラブ会員になると、東京から浜松途中下車でも広島まで総運賃が16,610円です。これは羽田〜広島のまともな片道航空運賃26,300円の約6割です。だから 飛行機にする時は全日空の超割などを利用せざるを得ないわけです。ジパングも超割もどちらも顧客サービスであり、とにかく安いのは歓迎ですが、まずは「安全」を下敷きにしたうえでのサービス競争ということに徹していただくようお願いしておきます。

 さて、名古屋でのぞみ号に乗り換え 、今度は静かな車内で熟睡し、4月20日午後8時雨も上っている広島駅へ軽くなった財布に反比例する大量のヒコーキ情報を土産にして、無事到着しました。

 

友情に感謝します

 オーソドックスな観光案内的旅行記を書く能力はないので、佐伯流の独善的な見方考え方でここまで書いてきました。
 お読みいただきましたら、せめて一言でもご感想を寄せていただきたいものです。叱声、もちろん謙虚に受けます。面白かった等々の感想、多大の喜びで受け止めます。

 終わりに、お会いしたすべての人々にお礼を申し上げます。

 会わなければならないのにスケジュールその他の関係で連絡できなかった人々にはお詫びを申し上げます。

 しかし、無形有形の友情のおかげで多くの土産を手にすることができたのです。航空科学館裏の格納庫へ行けたり、図書室の木村秀政文庫を調べたりできたのも、1年前に訪問したときにshadowさんの導きがあったればこそです。あれがなかったら、同館へ3回もお邪魔することはなかったでしょう。

 これは、ほんの一例に過ぎません。もう一度すべての方に感謝します。

                                                           完