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日本陸海軍の二大戦闘機に会ってきた 小牧・各務原旅行記

各務原編

川崎重工業()岐阜工場で土産に貰ったクリアファイル

佐伯邦昭

小牧編

2016/08/04(木)  
各務原編 2016/08/05(金)  4-1 川崎重工業滑阜工場北工場へ
4-2 飛燕修復プロジェクト ヒコーキ雲の関与
4-3

飛燕修復プロジェクト  オリジナルに戻す努力
修復工場内の写真を世界初公開

4-4 飛燕修復プロジェクトの今後  
2016/08/05(金)  5-1 川崎BK117C-2の 工場見学
2016/08/05(金) 6-1 かかみがはら航空宇宙科学博物館へ
6-2 かかみがはら航空宇宙科学博物館 館内見学あれこれ
2016/08/05(金)  7-1 終 幕
7-2  感 謝                                        

 

 

4-1 川崎重工業滑阜工場北工場へ    北工場

 5日は、今回の旅行の本命である日本航空協会航空クラブ主催による川崎重工業葛yびかかみがはら航空宇宙科学博物館見学会です。

 午前11時40分、名古屋駅太閤口噴水前に集合しました。総勢26名でした。J-BIRDの柳沢光二さんや福澤計人さんと名刺交換、やあやあと話す間もなく名鉄観光の貸し切りバスで出発、昨日の県営名古屋空港行きバスと同じように高速道路に乗り、よく分かりませんが名古屋市都市高速、名神高速、東海北陸自動車道を通って、川島SAでトイレ休憩、12時50分ごろ各務原市の川崎重工業滑阜工場中工場の駐車場に着きました。

 案内をしてくれる職員さんが乗り込んできて「申し訳ないが、1時にならないと工場に入ることはできないので、しばらくバス内で休んでいてください」と。川重では写真禁止と言い渡されていましたが、バスの窓からこんなのは宜しかろうと1枚だけ。Boeing駐在員さんはどんな車に乗っているのかなと想像しながら。

 きっちり13時に職員さんの案内で北工場の建物の一つの4階会議室へ向かいました。明るく広い部屋の各テーブルの上には、既に飛燕修復のA4判2枚ものペーパーが用意されており、飛燕プロジェクトマネージャーの野久徹さんの歓迎挨拶に続いて同プロジェクトリーダーの冨田 光さんから修復の経緯と現状の説明がありました。

 ペーパー資料の公開も禁じられています。工場内撮影禁止は分りますが、ペーパーまでとは? そのあたり、飛燕所有者の日本航空協会と川重との間に何かがありそうなと思うのは、ゲスの勘繰りです。 防衛機密でも企業秘密でもない事業ですから経過をどんど ん明らかにしていけば、新たな情報や部品の提供者が現れるかもしれないのに、両者ともケチな根性と言わざるを得ません。

 以後の記述に写真皆無となりますので、飛燕見学後にきれいなお嬢さんから手渡されたお土産を有難く公開しておきましょう。封筒の中身は、飛燕のクリアファイル、ゴルフボール、ピンバッジの3種でした。




 P-1は51空で順調にテストが進んでいるのでしょうか。このボールを打ってみてスライスやフックが出たら、あまり順調ではないとしますか、それとも打ち手がわるいのか、いずれにしろOBへ飛び出してしまわないように祈ります。


 可愛らしい飛燕のピンバッジです。公開されたら、これを付けて見学に行きましょうか。

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4-2 飛燕修復プロジェクト  ヒコーキ雲の関与  修復

 さて、いよいよ元試験場の建物の中で修復が進む飛燕、私は1998年の知覧以来18年ぶりの対面でした。

 先ず、インターネット航空雑誌ヒコーキ雲として特筆すべき会話を紹介しておきます。
  
佐伯 『インターネット航空雑誌ヒコーキ雲の飛燕のページは役に立ったのでしょうか ?』
冨田
プロジェクトリーダー 『勿論です。あれが無かったら取り掛かっていないでしょう 。』

 川崎キ61三式戦U型改飛燕(6117)の戦後史に関わってくれた皆さん、これは全員への 賛辞と受け留めてください。社交辞令が含まれるとしても、すくなくともヒコーキ雲がプロジェクトの立ち上げに寄与していることは間違いありません。うれしいですね。 (なお、平成の修復知覧から各務原へで紹介している各務原市広報では水嶋源司さんをリーダーとしていますが、彼はサブリーダーであり、冨田光さん がリーダーです。)

 勿論、ヒコーキ雲は、写真で寄与しましたが、工作で実際に役立ったのは、イギリスの展示五式戦の調査、オーストラリアの飛燕復元工事の調査、所沢の記念館が所蔵する図面 と残骸などその他多くの資料であることは言を待ちません。3Dプリンターも寸法の割り出しなどに活躍したそうです。


4-3 飛燕修復プロジェクト  オリジナルに戻す努力   オリジナル

 部屋へ入ると、塗装をはがされた胴体と主翼が目に飛び込んできました。鈍い銀色の外板は、70年間あちこちに引きずり回された経歴を物語るように、でこぼこと波打っています。

 これまでの塗装は、大きく4回にわたると思います。
   @ オジナル塗装
   A 1962年米第5空軍と土井武夫さんらによる修復の際の塗装
   B 岐阜基地で保管時代の数度にわたる塗装
   C 1986年知覧へ展示するために少飛会が行った迷彩塗装
 外板の凹凸や欠損箇所の多くはパテで補修してあり、これらを剥がして、jジュラルミンの地肌まで回復させるのに2ヶ月もかかったそうです。その結果、オリジナルの日の丸や主翼 の「フムナ」の痕跡などもかすかに現れてきたりしたそうです。

 操縦席前の二門の機銃口があるカバーは、トタン板のダミーが取り付けられいました。新たに製作しますが、それもレーザー切断など新しい工法でなく、操縦席の計器盤や操縦系統などとともにオリジナルな工作で実施するとかの話しでした。

 操縦席裏後方の燃料タンクなどは、この際省略するとのことです。

 翼端灯のパテを剥がしてみたら、ダミーの内側から、本物の製造刻印がでてきたので、よりオリジナルに近づけそうです。

 知覧で取り外されていたハ104水冷エンジンが鎮座すべき発動機架の中は、補強のための鉄櫓が組んであります。それは取り外してエンジンを組み込むそうです。エンジンは、過給器を新造すると聞きました。

 平成の修復知覧から各務原へで中村さんが探している製造銘板は、残念ながら出てこず、その位置のはがされた痕が悲しそうでした。

 以上、まだまだ聞きかじりのことが山ほどありますが、記憶が薄らいでいるのでこのあたりで止めて起きます。書いたものでも間違いがあるかもしれません。

 2016/09/09 記念写真公開

 見学の人物は別として、修復工事が行われている試験棟内での写真は、曲がりなりにもこれが世界初公開です。
 垂れ幕と胴体の間の床に何十もの小物が並べられており、左の方にはエンジン本体とプロペラががありました。ラジエーターカバーは逆さまに置いてあります。この写真以後の予定では、風防枠とエンジンの上部カバー製作やエンジンの取り付けなどでした。過給機は、明石工場で製作中で、10月15日から神戸のカワサキワールドで機体とともに展示されます。

 世界で初めての修復中飛燕の公開(掲載許可済み) 


4-4 飛燕修復プロジェクトの今後   今後

  修復した機体は、リニューアル工事完了後のかかみがはら航空宇宙科学博物館に展示されますが、その前に、今年9月と伺いましたが、神戸のカワサキワールドで行われる川重の創立記念行事に持ち込まれるそうです。

 とすれば、8月5日の時点では、もう最終段階に入っていることになります。欠品部の製作などを進めて、胴体と主翼を組み立て、エンジン、プロペラ、脚を取り付ければ完成でしょう。その予定について、質問がでましたが、冨田リーダーは言葉を濁しました。

私の想定
 さて、完成機がどのような姿で我々の目に前に出てくるかです。
 航空協会の基本の姿勢が『見てくれのダミーは作るな!』であることから、私は、現状の無塗装アルミ地肌のまま完成させるのだろうと予想しています。波打っている外板も平滑にすることなく、そのままで。

 航空遺産継承基金による重要航空遺産の指定では、オリジナルをどれくらい残しているかが重要なポイントになっており、その思想が飛燕修復にも貫かれているということです。三菱の秋水復元の思想とは正反対です。

 以上私の勝手な想定ですが、はて、結果は?    

5-1 川崎BK117C-2の生産現場見学 BK117C

 北工場での次の見学は、BK117C-2の製造工場でした。川重の分担は胴体、トランスミッション、降着装置で、この時点で、3機がラインに並んで組み立て中でした。ドイツのMBBが分担しているローターや操縦系統、チェルボメカのエンジンは、南工場で取り付けて、完成試験飛行を行うとのことです。そっちの方も見たかったです。

 写真を撮れないし、作業中の騒音でマイク無しの説明はよく聞き取れませんで、日本ではいわば官公庁向けベストセラーのヘリコプターは、残念ながら半完成品の製造過程を見るに留まったという程度にしておきましょう。

 以上で川崎重工業滑阜工場の見学は終わり、再びバスに乗って約10分ほど、岐阜基地西端を大きく迂回して最終コースのかかみがはら航空宇宙科学館へ向かいました。川重構内に展示してあるロッキードT-33Aを見たかったのですが、車窓からは見付けられませんでした。

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6-1 かかみがはら航空宇宙科学博物館へ   かかみ1

 かなり疲れが出ているので、以下、あまりまともな報告にならないことをお断りします。(今までのも、大していいレポではないではないかとの影の声あり、恐縮です)

 駐車場に止まると、長浦淳公(あつひろ)館長さんが出迎えてくださり、玄関では、ボランティアガイドの小山澄人さんと青木典夫さんがにこやかに出迎えてくれました。

 先ずは、会議室での館長さんの挨拶と概要説明です。          

マイクが
長浦館長、右側の二人がボランティアの小山さんと青木さん

 長浦さんは愉快な人柄です。先ずは、学芸員資格は埋蔵文化財関係で所持していますが、それだけのことで航空科学博物館立上げに借り出され、今日まで180度異なるヒコーキ科学に接することになったとは、先にも触れたわが国の学芸員制度の欠陥の典型を示すもので、このあたり笑いを誘いました。本当は、深刻な問題なのですけどね。

 開館に当たっては横山晋太郎さんらの努力でパワーリフト歴史の展示館でもあるに示しているように明確なコンセプトがあり、貴重な資料が数多く集められたのですが、市長が替わると共に扱いが冷淡になり廃館の危機に遭遇したそうです。

 思えば、私が13年前に岐阜基地航空祭の折に訪問した際、横山さんは航空博物館参与という肩書きは与えられながら、航空機には関係のない施設の長に追いやられ、現在は北海道大樹町の宇宙航空研究機構におられるようです。

 そして、今の市長になると再び理解が得られまして、飛燕の里帰りを契機に展示場を拡張するリニューアル計画が持ち上がったのでありますが‥‥ そこへ、岐阜県が割って入ってきたのです。県市共同経営で財政的には助かりますが‥‥ 困ったことに知事さんは宇宙が大好きだそうで、拡張部分は宇宙関係になりそうだと‥‥。

 リニューアル工事による閉館は、9月26日から平成30年3月下旬までの予定ですが、新たな展示が飛燕だけで、他は宇宙関係というのでは、ヒコーキマニアはがっかりです。 


6-2 館内見学あれこれ   館内見学あれこれ

 富士T-1Bは、コーラ瓶型のエリアルールを採用しているのではありませんと、天井から写真を撮ってくれたり、主翼付け根に長い物差しを当ててくれたりした小山さんに、実物の前であの時は面倒かけましたとお互い苦笑い。T-1-Tec参照)
 
T-33Aを岐阜基地からバートルに吊り下げて運ばせてきたのが青木さん、A4413-12参照)その実物の機首のヨーストリングの紐を確認してくれたのが小山さんAU-0014参照)e.t.c.
 回りながら二人に接するたびに何かと話しが弾みました。 思えば、ヒコーキ雲編集者として、かかみがはら航空宇宙科学博物館に何度お世話になってきたことか。改めて思いをかみしめた次第です。


 こんな写真を撮るのは佐伯さんだけでしょうと、協会の長島さんに冷やかされシーン。普段はヘリコプター展示にあまり人気が無いそうですが、ベル47から日本のヘリコプターの歴史を創生してきた川重のお膝元の博物館です。もっと脚光を浴びて欲しいです。ただ場所が狭すぎる。

・ ところで
 開館時から展示や保存或いは特別企画にタッチしてきた小山さんと青木さんが我々のためにガイドとして呼ばれているのですが、やや、手持ち無沙汰のように見受けられました。話しかけるのは私くらいのもの。せっかく休暇をとって駆けつけてくれている二人ですから、大いにしゃべらせてやりたかったですね。その点について一言‥‥

 1-6の三菱史料室を再読してください。まず全員を零戦の前に集めて三菱航空の歴史と4705号機の解説、次いで秋水の前で解説、後は自由にどうぞとやった方式です。

 例えば、会議室で館のコンセプト5分、飛鳥の前で10分、UF-XSの前で10分、後は自由にというようにやれば、約1時間の見学時間の印象が大きく変わっていたように思う訳です。ご一緒の方々は皆さん知識の高い方々ばかりですから、そんなことしなくても勝手に見て回るよと言われればそれまでですけどね。

・ え! 航研機のエンジン?
 滑空の佐藤一郎さんを私に引き合わせてくれた渋谷義夫さんが、迎えの車が来ているので、ここで失礼というので、お互いにポートレートをパチリ。
 これから小松へ行くんだよと。聞いてみると、成田の航空科学博物館にあるP&W1830エンジンをレストアして石川県立航空プラザへ展示する打合せのためだということです。
 立川ひこうき病院の院長さん、相変わらず忙しいですが、もっと驚いたのは、見せてくれた写真にそのエンジンと並んで写っている残骸が航研機のエンジンらしいというのです。川崎がBMW-8を改造した水冷V型12気筒700馬力エンジンです。

 航研機といえば、かかみがはら航空宇宙科学博物館にも、主翼のリブと国際航空連盟が発行した世界記録認定証があります。

 その展示を含めて博物館の隅々まで探索して写して回るのは至難なことです。この度も、多少歩き回って写した中からA4413-10に新規のものもしくは補充すべきものを載せましたが航研機はアウトです。

   

7-1 終  幕  終幕

 4時15分までにお帰りくださいとバスガイドに言われており、周りを見回すと既に大半の方がお戻りのようでした。西日がきつい中をそれでも欲を出して屋外展示機を写しながらバスへ急ぎました。





 小山さんのボランティア活動報告によりますと、バートルの向こうに見える工事フェンスの所とこの駐車場には展示機収納用の大型テントが組みあがります。歴史的に貴重な機体群は、その中で1年半の眠りに入る訳です。

・ 再び名古屋へ
 帰りのバスの中で、全日空から航空協会に出向してスポーツ航空大会などを企画し、私に航空会館の鳳凰レリーフや気球のステンドグラスなどを教えてくれた北宮さんに、あの時はどうもと挨拶、頂いた名刺を拝見すると、
    肩書が 趣味 航空写真、模型飛行機(ソリッド、ゴム動力)、木版画、デザイン と、
 
素晴らしきかな第二の人生、今朝は、県営名古屋空港へ行き、MRJ初号機の陸離を撮ってきたそうで、へー、時間的にそれが可能だったのかとそのタフネスをうらやましく思いました。

 帰りの道順は、一般道が多くてよく分かりませんでしたが、着いてみると、出発した名古屋駅の太閤口とは反対側でした。しばらくは、駅入口の方向が分らず、皆さんの後ろを歩いて例の分りにくいコンコースに入りました。

 時間があるので、タワーの屋上階まで上がって写したのがこの建物群、鉄とセメントとガラスの街ですからやむをえないとはいうものの、柔らかみのない大都会の典型的な風景を眺めていると、頭がくらくらしてきます。
      

 早々に1階まで降りて、30分ほど窓口行列に並んで新幹線を早い列車に切り替えてもらい、駅弁みそかつえびヒレ重(1-3参照)を買って帰路についたのでした。

 かくて、日本陸海軍の二大戦闘機に会う旅の終幕を迎え、こんな薬は飲んではいけない、こんな手術は受けてはいけないというセンセーショナルな記事の週刊誌を読みとばし、数独クイズに挑戦しながらの夜行列車で広島へ帰り着きました。

       


7-2  感 謝   感謝

 飛燕修復の実際とかかみがはら博物館が間もなく休館という時期に無料の見学会を実行してくれた日本航空協会さん、バスの中では冷たい水とお菓子の接待まで頂き、まことにありがとうございました。川重は手持ちの入場券を無償提供してくれて入館料をタダにしてくれました。いろいろなつながりがあって、この世の中が回っていることを実感します。

 これからも、そういうつながりを大切にしてインターネット航空雑誌ヒコーキ雲に取り組んでいくことを約束して感謝の言葉とします。

                     日本航空協会航空遺産継承基金賛助員 佐伯 邦昭

   
終り