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航空歴史館

 

《追悼記》  我が国航空史の確立に大きく貢献した藤原 洋さん

2023年8月 佐伯邦昭


目次
 まえがき 航空検査の申し子
 事績1 三菱MC-20妙高號とのかかわり
 事績2 調布飛行場とのかかわり
 事績3 セスナ170B JA3015の改造のレポート
 事績4 航空法施行前の登録記号について
 事績5 日航地上訓練機材について
 事績6 飛行船の写真提供
 あとがき J-BIRDの編集で我が国の航空史を確立した

■ まえがき  航空検査の申し子
 藤原 洋さんは、2023年7月23日にその生涯を全うされました。
 1964年JAHSの会員紹介をご覧ください。



 関正一郎さんとの関係は、居酒屋で泥酔する関さんを日本橋のお宅まで連れて行くのが藤原さんの役目だったと笑いながらの話しを聞いています。早くから米国の航空最新情報を得て執筆活動もしていた関さんから教わることも多かったと思われます。
 都立理工専門学校(現都立産業技術高等専門学校荒川キャンパス)卒業後、運輸省に就職、鉄道局を経て1956(昭和31)年に航空局技術部検査課へ配属されました。
 勿論ヒコーキマニアとしての活動もずっと続いている訳で、航空専門部署の国家公務員が民間のヒコーキマニア連の中に入って活動すること、即ち、公けと趣味の合体という特異な姿がそこにあります。この両道を貫かれたのが藤原さんの終生の姿勢であったと思います。
 曰く ― 模型作りから航空機趣味の道に入った
 曰く ― 同好の士と積極的に交わった
 曰く ― 航空局の専門知識による雑誌・年鑑類への寄稿や監修
 曰く ― 局内で知り得た情報をマニアに積極提供する  等々。
 立川の米極東空軍兵站司令部の施設で訓練を受けていた技術者を受け入れてスタートした検査課には、活発な空気があふれていました。その一端を戦後最初期の年鑑である鳳文書林の日本飛行機全集1954年版の大澤信一検査課長の文章で汲んでいただきましょう。戦後航空史を語る上で見逃せない行政側の意気込みと言えましょう。



 適正な技術データを積極的に普及させたいという空気の検査課に飛び込み大澤課長らの薫陶を受けた藤原さんは、まさに“航空検査の申し子”となりました。
 後年、この日本飛行機全集にデータを提供するだけでなく更に全体監修者に昇格し、酣燈社っでは、世界航空機年鑑の日本民間機の全機解説を任せられるようにもなりました。
 藤原さんの検査魂に裏打ちされた指導や協力は各方面に及びますが、筆者自身にとっては、素人ながら1962(昭和37)年から広島航空クラブ⇒ヒコーキの会⇒航空史探検博物館⇒インターネット航空雑誌ヒコーキ雲まで活動を永らえて来た影に藤原 洋ありです。
 その証拠を以下、インターネット航空雑誌ヒコーキ雲上に見られる七つの事績をもって、わが国航空史に果たされた役割として紹介し、もって追悼文に代えさせてい頂きたいと存じます。



■ 事績1 三菱MC-20妙高號とのかかわり

 参照 航空歴史館 三菱MC-20妙高號の事故について  リンク
 図書室 妙高號事故 その墜落原因を推理する  リンク
       
 航空検査業務中の最も痛ましい事故である三菱MC-20について、藤原さんは、妙高號殉職記念碑を常に関心を持ち、川崎の航空試験所から羽田空港そして終の棲家となった三菱重工業大江工場までの経緯を知らせてくれています。
 殉職した同機の主任検査官山川鹿三郎氏のお孫さんが公開した資料についても逐一報告がありました。
 向かって左が資料を調べている藤原さんです。



 また、未だに明らかになっていない墜落原因についての論文を航空ジャーナリスト協会機関誌に3回に分けて発表されました。
 その中の次の文章が、“航空検査の申し子”の真骨頂を示しています。
 「あらゆる文献から、事故に関与した疑いのある要素を洗い出してみよう。これは日本の警察が得意とする『状況証拠』からの類推であり、私の最も忌避する手法だが、他に情報を得る手段が無いので、敢えてこの手法を用いる。」
 更にあらゆる文献を紹介し、その上での推論を展開した論考の最後を次の文章で締めくくっています。
 「安定が良くなかったことが事故原因に関与しているのではないか?というのはあくまでも、筆者の個人的な類推であり、これを否定するのも、疑うのも読者の自由。一つの仮説と考えて頂ければ幸いである。」
 疑わしきは罰せずの検査官の節度をきっちりと守っておられるではありませんか。
 妙高號の墜落状況、原因究明、当時の検査体制から殉職記念碑の変遷迄ネットで手繰れるのは、インターネット航空雑誌ヒコーキ雲だけです。今後も何かと活用されていくことでしょう。



■ 事績2 調布飛行場とのかかわり

 参照 航空歴史館 調布飛行場の移り変わり  リンク 

 参照頁は、少々詰め込み過ぎの雑な編集になってしまいましたが、調布飛行場の場外離着陸場時代からの見逃せない写真があって、貴重な歴史記録になっています。
 その中で「撮影1980/02/22」とある写真は、筆者が藤原 洋 空港長の案内でエプロンは勿論、部外者立ち入り禁止の伊藤忠整備工場と旧陸軍の大格納庫の中などで写したものです。
 驚いたのは大格のボロボロの屋根の下で、雨が降っても文句は言わないとの条件で、前年に奄美でクラッシュしたセスナ402Bを修理していたことでした。 もっと驚いたのは、その屋根のてっぺんに米軍時代からの管制小屋があること、かなり慣れた職員でないと屋根の上で登り降りできないし、風速が30ノットになると直ちに避難というシロモノでした。
 管制は、日中限定の有視界飛行で、5キロ先の読売ランドのタワーが目視出来なければ離陸を許可しないとか、北側の民家にうるさい爺いがいて何かと文句を付けに来るので大変だとか、調布飛行場の門柱の東京が東東になっているのは、占領時に米兵が京の文字にいたずらをしたのだといった、歩きながらいろいろな話を聞かせて貰いました。
 非常に温厚なお人柄で、このようなフランクな応対を受けたマニアはたくさんおられることでしょう。 でも、仕事はきっちりとこなされました。
 次の文章は、筆者が「中・小型機のメッカ 調布飛行場」として発表した紀行文に対する藤原さんの修正投稿です。 ヒコーキ雲紙機関誌CONTRAIL 103(1980年夏の号)より



 赤のアンダーライン部分の「調布飛行場利用者のために」は、それまで、ばらばらな通達や扱いであったのを、並みの飛行場と同じように整理し、統一した基準で運用していこうというもので、新聞紙大の周辺航空区域図と場周経路写真まで付けたとても立派なものです。 鳳文書林から発行させたのは、事績1で触れた検査課時代からのつながりによるものでしょう。 素晴らしい業績です。

補足
 東京都公園協会の公開学習会で、調布飛行場の戦後回顧を講演し、その際の武蔵野で発見された百式司偵の主翼を調べている藤原さんの写真が公開されています。 
 
 武蔵野の森公園 公開学習会 藤原洋さんに聞く調布飛行場の戦後回顧録
   / 東京都公園協会  リンク




■ 事績3 セスナ170B JA3015の改造を見続けたこと

 参照 航空歴史館 前輪式セスナ1710B JA3015について 藤原 洋  リンク

 或る実業家が多くの発注を期待して取り掛かったプロジェクトは、結局自機のみの試作のみで終わり、その機体も改造前の姿に戻されてしまった‥‥  







 セスナ172が続々と輸入され。前輪式で好評なので、それなら尾輪式のセスナ170Bを前輪式に改造すればヒットするだろうとの思惑でしたが、主脚を後方へずらした影響からか前輪操行に問題が出たりで、各地でデモを行ったものの契約は取れませんでした。
 藤原さんは、偶然に龍ヶ崎でのテストにめぐり合わせ、更には航空事故調査委員会退職後に再就職した先がこの改造を実施した会社だったので、当時の技師に聞いたりして 「JA3015はセスナ170Bとしては、数奇な運命をたどった1機でしょう」で始まるレポートを書いてくれた訳です。
 こうした大規模な改造は、筆者の記憶では、ビーチクラフト モデル18の前輪式へ改造、デハビランドDH-114ヘロンの四発エンジンの交換、このセスナ170B JA3015の3例だけだと思います。
 藤原さんのレポートは、航空機の前輪式への移行時期における一つのエピソードではありますが、苦心惨憺して設計され、数々の試験飛行を経て商業ベースに乗っている航空機の重心を変えることの難かしさを教えてくれます。



■ 事績4 航空法施行前の登録記号について

参照 グライダーの部屋 航空法施行前のJA記号について   リンク
   巴式ろ之参型セコンダリーJA0005中国醸造号について  リンク

 

 JA-0005に-が入っているのは何故だ?
 1952(昭和27)年7月15日に施行された航空法施行規則第136条は「登録記号は、国籍記号の後に連記しなければならない」と明記しております。-を付けていけないのです。
 筆者、就職の第一歩が法令関係業務の地方公務員であった悪い癖で、このセコンダリー中国醸造号の違反行為?を突き止めたく、いろいろ調べるとともに藤原さんには、中央での調査をお願いしました。
 多くの資料と昔の上司などに当ってくれて、2008(平成20)年1月と翌年3月に報告がありましたが、「役所の仕事は如何なる場合でも法令を遵守し、決裁文書等があるはずだが、それが全く見当たらないので、仮説はあってもあくまで仮説にすぎない」という、“航空検査の申し子”を貫いた結論でした。
 しかし、それで終わるせる訳にはいかないので、対日講和条約発効で航空が全解禁になり、グライダー愛好家も滑空機建造や飛行を行うようになったので、航空庁としてほっておけず、新航空法が完成する前の段階で、ICAOや英国の規定(-あり)にのっとって耐空証明や登録記号を交付したのであろうと結論付けました。
 藤原さんが最も忌避した状況証拠による結論です。 何も言ってきませんでしたが、未だに苦笑しておられるのではないかと察しています。




■ 事績5 日航地上訓練機について

 参照 日本航空のビーチクラフトH-18 日航整備訓練所のJT-001JT-002  リンク



 羽田の整備エリアで歩き回れた時代に写した写真だが、JT001とは?の質問がありました。藤原さんが、早速JALアーカイブスに問い合わせて、1960年代に日航が第二整備工場に設けていた整備訓練所の初歩技能訓練機材で、塗装、配線、動翼の着脱などに使っていたものと判明しました。 その後、BheechCraftA36さんの調査で。米軍のUC-45F払い下げ機体であったことも判明しました。
 インターネット航空雑誌ヒコーキ雲での素早い反応には、質問してきたPAPPYさんがびっくりしておりました。




■ 事績6 飛行船の写真提供

 参照 飛行船 Luftschiff WD-1A D-LDFM  リンク 
 


 藤原検査官が、桶川で飛行船の耐空検査をした時の実写です。1979(昭和54年)にヒコーキ雲紙機関誌用に送ってくれたもので、CONTLAIL 99(1979年夏の号)に、本文「軟式飛行船WD-1」としてこの飛行船の詳細なデータから運行方法に至るまで紹介と解説を掲載しました。
 飛行船に関してこれほど詳しく書いてあるものは、余程の専門書でない限り唯一ではないかと思います。 希望者にはコピーを差し上げますので、佐伯までお申し込みください。(A4で4頁)



■ あとがき J-BIRDの編集で我が国の航空史を確立した

 私は、2023年5月に『究極の史料集成を成し遂げた』として藤田俊夫さんの追悼記を書きました。『究極の史料集成』とは勿論J-BIRD写真と登録記号で見る戦前の日本民間航空機 (hikokikumo.net) です。
 J-BIRD編集で共同作業を行った藤原 洋さんにも全く同じ賛辞を捧げます。
 藤田さんの文献渉猟と藤原さんの“航空検査の申し子”としての検査魂による膨大な史資料の分析があったからこそ、後世に遺せる良書ができあがりました。
 それでも、藤原さんは「‥‥間違いや、不明なところがかなり多いデータですが、これから皆様のご指摘をいただき、追々直してゆくことになるでしょう」と実に謙虚なメッセージを私に寄せています。 発行から7年、新しい資料の発掘もあるでしょうから、両氏の意思が継承されているものと信じます。


 最後に藤原さんが遺されたmemoをご遺族の許可を得て、ここに謹んで掲載させて頂きます。

 
 まことにうらやましい死に様です。
 藤原 洋さん 本当にほんとうにありがとうございました。     (終) 

       2023年8月 インターネット航空雑誌ヒコーキ雲創始者 佐伯邦昭