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航空歴史館 最終更新23/07/19

 

川崎キ61三式戦U型改飛燕(6117)の戦後史

The History of the KAWASAKI ki-61 Fighter HIEN


修復後はじめて展示された航空博覧会(1963年二子玉川園)での美しい姿 撮影geta-o

目 次

その1 横田から知覧へ

    (このページ)

 

1945〜1953  横田基地での記録

 1953〜1962 日本航空協会へ譲渡 修理までの記録

 昭和の修復 第5空軍立川基地整備隊 

 1963〜1969 修理後の記録 熊谷基地に保管 全国展示に貸し出し

 1970〜1985 岐阜基地に展示保管 全国展示に貸し出し

 1986〜現在 知覧市へ期限付きで貸し出し

 お便りなど
その2  

平成の修復 知覧から各務原へ

南日本新聞の報道
日本航空協会が公式発表
修復に当って現地調査
各務原市へ向けて積み出し
広報各務原 平成15年11月1日号
お願い 主銘板が失われる前の写真を探しています
川崎重工岐阜工場で修復中の飛燕見学会
原製作所(長野県上田市)が3D計測で参加
川崎重工創立120周年記念展に展示  神戸ポートターミナル大ホール
日比谷公園の展示から63年ぶりの再会
日本航空協会航空遺産継承基金によるレポートの一部
かかみがはら航空宇宙科学博物館収蔵庫で公開  式典の模様
収蔵庫展示位置の変更
プロジェクション・マッピングによる国籍マーク投影
リニューアルオープン後の飛燕展示 
NHKテレビで紹介された岐阜かかみがはら航空宇宙博物館の飛燕
ぎふチャン(岐阜放送)で紹介された岐阜かかみがはら航空宇宙博物館の飛燕
その3    福生飛行場陸軍航空審査部で見た飛燕  付 福生への米軍の進駐について
その4    飛燕の時代 キ61 飛燕初飛行70周年記念展
その5    飛燕のスピナーとカウリングの一部を発見
その6     図書室 三式戦闘機「飛燕」二型6117号機の記録
協力者

青木 忠、青木典夫、阿施光南、阿部政男、荒木保徳、 飯尾剛弘、井上 剛、インプラント、上岡寿志、大木真一、大久保滋幸、大野芳希、各務原市歴史民俗資料館、かつお、川崎重工業梶A航空情報編集部、航空ファン編集部、幸田恒弘、小山澄人、櫻井  隆、清水郁雄、白土師、杉山弘一、瀬戸孝文、高田和彦、高見保市、田中昭則、つづき、戸田保紀、中里重雄、中村泰三、にがうり、西山信二、 西山太成、丹羽八十、日本航空協会航空遺産継承基金、浜遊孝、はねぶた、米空軍横田基地史料部、マツ・モデルデザイン松野 博、南九州市一市民、守屋憲治、山見坂成光、山本又一、吉田家、ET、FA300、geta-o、HAWK、HSC-M、HORNET、James LandrumJohn Treiber、KUPANBA、masa、Miyazaki、RBO、PAPPY、TRON、YS45 【まとめ 佐伯邦昭】

参考文献

世界の傑作機第4集、航空ファンイラストレイテッド110、日本航空機総集川崎篇、航空情報・航空ファン・航空時報、航空と文化、
AIR JAPAN各誌

      

その1 横田から知覧へ

 

〔1〕  1945〜1953  横田基地での記録


 
本機は多摩(福生)飛行場の日本陸軍航空審査本部所属であったといわれています。終戦時に福生へ集められた180機にのぼる日本軍用機のなかで米国へ送られた3機及びキ-115剣とこの飛燕が辛うじて破壊を免れ生き残りました。本機の戦後史がここからはじまります。 

2016年 神戸ポートターミナルの川崎重工創立120周年記念展のパンフレットから

横田基地で最も古いと推定される写真

[46-1]   1946年8月15日 陸軍横田基地が恒久航空基地として占領軍へ引き渡された際の式典

横田基地史料部提供 USAF photo

拡大 日の丸も残っているところから17の文字など塗装は日本陸軍時代のものと推定されます。

[46-2]   裏に1946とメモしてある写真

航空ファンイラストレイテッド110 太平洋戦争日本陸軍機(発行2000) 30ページ (転載許可済み)    

 
この写真は、文林堂所有の5枚のうちの1枚で裏に1946と書いてあるそうです。縁石で囲ったサークルの中に展示してあります。 上の写真とほぼ同時期の撮影と思われます。

[46-3]   上と同時期と思われる写真

横田基地史料部提供 USAF photo

[47-1]   1947年の空中写真

提供 TRON (国土地理院許可済み) 
    

[47-2]   1947年の写真 

提供 横田基地


提供 横田基地
   

[47-3]   1947年(推定)の写真 47-3

人物はTurmer 経由Dwight、高見保市

機関砲の上部の蓋が欠損


 


提供 masa
 

 後方にベースオペレーションの塔屋(戦中は福生飛行場の管制塔)が見えています。機関砲の上部と弾倉の蓋がはずされています。 

提供 masa
 
左主翼の前縁のランディングライトのフェアリングが失われています。

[47?]   米軍マーク、US AIRFORCE 0022111

航空ファン世界の傑作機シリーズ4集 飛燕(発行1967) 7ページ (転載許可済み)





 日の丸は米軍マークに変えられ、垂直尾翼にUS AIRFORCE 0022111と記入されています。展示中はタイヤに砂を入れ、要所には油を塗って錆び止めするなど気を使っていたそうですが、風防は開いたままでした。星条旗の横枠の赤いラインは1947年1月17日にAN-I-9bにより制定されているので、少なくともそれ以降の塗装になります。

 垂直尾翼の方向舵の塗色が機体と異なるのは木造兵舎の火災によって方向舵と昇降舵が燃え、日本人駐留軍要員が修復したためです(守屋 憲治)

[49-1]   1949年(推定)三軍統合記念日の写真

提供 横田基地 東京都横田飛行場参照

[53-1]   木造兵舎火災後に体育館前に展示 1950年頃と推定

提供 masa

 左主翼前縁のランディングライトのフェアリングと機首上面パネルはアルミ板で塞がれて塗装されています。
修復されたと考えても良いと思います。17の文字が赤から黒に変わっています。

提供 John Treiber (阿部政男氏経由)

GYMNAGIUM (体育館) 提供 John Treiber (阿部政男氏経由)
 

      参考 BASE THEATER 1950年頃                     同1960年頃
      
 



[53-2]   1953年頃と推定される写真

James Landrum  提供 横田基地

 

[53-3]  1953年日比谷公園で展示される前の夏か秋と推定されるカラースライド    53-3

提供 杉山弘一




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〔2〕 1953〜1962 日本航空協会へ譲渡 修理までの記録

[53-1] 1953/12/17〜20 日比谷公園で展示

 ライト兄弟の初飛行日からちょうど50年目にあたる1953年12月17日から20日まで東京日比谷公園で日本航空協会主催新旧国産飛行機展示会が行われ、横田から飛燕とキ-115剣、入間から桜花、東北大学から モ式六型、新立川航空機から製作途中のR-53練習機が展示されました。 飛燕は剣とともにこの年に米軍から日本航空協会へ譲渡されました。

航空ファン世界の傑作機シリーズ4集 飛燕(発行1967) 49ページ (転載許可済み) 

 横田から出展の飛燕は、トラックで運搬中に道路幅をオーバーしたため、両主脚の付根から外側の主翼を切断し、その状態で展示されました。(キ-115剣も翼を切られています。)米軍マークは日の丸にかわり、尾翼の米軍シリアルナンバーも消してあります。状態は横田展示中と同じで風防が閉まって いません。


[53-2]    提供  大野芳希(戸田保紀経由) 航空歴史館2-16 再び見る日本軍用機参照

 






  応急処置で取り付けた切断主翼の支え棒
  

更 安田潤平アルバムより 撮影者不明 提供 丹羽八十  クリックで拡大します。


 安田潤平アルバムより 撮影者不明 提供 丹羽八十 

[53-3] 展示会の後、飛燕と剣は三鷹の運輸省運輸技術研究所の1階倉庫に保管し、剣はその後東京都立航空高等専門学校へ移されました。

[53-3] 1954/01/01付け航空時報によると、展示会後、羽田空港に移され、そこから飛燕は三鷹の運輸省運輸技術研究所へ運ばれて倉庫に保管されました。 写真募集

     

[54-1] 1954/04/01付け航空時報によると、飛燕は、川崎航空機岐阜工場で修理に着手したとあります。 写真募集   また、モ式六型を運輸省運輸技術研究所で修理に着手したとあります。

  

[54-2]  1954/10〜11 熊本市市電開通30周年記念交通観光博覧会 で展示 54-1

     提供 山見坂成光
   
     

 この写真により、投稿の事実が裏付けされました。日比谷で公開された機種のほかにロッキードF-94B、L-17(?)、ベル47Dを展示した催しが、九州の熊本で行われたということに驚きを感じますし、今のところでは、日比谷に次ぐ二番目の航空機展示会であろうと推定されます。

 水溜りの残る不整地や、この年の7月に保安隊から自衛隊になったばかりの隊員の服装など当時の博覧会の状況がシャープな映像によく現れています。

 横田基地で失われていた機関砲の上部と弾倉の蓋が、日比谷公園ではきれいに修復されていたように見えましたが、この写真で見るとブリキ板様のもので塞がれていただけみたいです。

[55-1]  1955 名古屋市 名古屋城再建資金造成のりものフェアーと花人形 で展示     55-1

撮影1955 三点クラブ初代会長荒木保徳 提供山本又一 高田和彦 (以下同じ)




世界の航空機1955年6月号読者サロン

[56-1] 1956/03/20〜05/27 近鉄あやめ池遊園地航空広場に展示
 
朝日新聞社主催 新しい生活と住宅博覧会     関連ページ リンク

撮影1956/04 提供 瀬戸孝文

AIR JAPAN16号(1984/03発行)編集後記より

 操縦席だけでなく、羽布ははぎとられ、垂直尾翼の上部は壊されています。会場には、米軍F-86F 24583と特攻機キ-115剣も展示(世界の航空機1956年8月号ローカルニュース)  
 
AIR JAPANの「昭和39年春(?)」は「昭和31年」の誤り。

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[57-1]  1957/03/21〜06/15 千葉県谷津遊園地の毎日新聞社主催こども乗物博覧会に展示

撮影にがうり

 子供用の小さなカメラで撮ったもの。場所は、谷津遊園(習志野市)。1955年ごろだろうということです。日比谷で切断されていた外翼は復旧していますが、風防などは更に荒れています。日比谷に展示された後の保管や巡回にあたっての管理もかなりずさんだったようです

撮影大野芳希(戸田保紀経由) 航空歴史館2-16 再び見る日本軍用機参照 
 
 

 

[58-1]  1958/03/25〜05/25 福岡県門司市 門司トンネル博 老松会場に展示

 関門トンネル車・人道開通記念の博覧会に展示されました。1958/03/01付け航空時報によると、飛燕は新しく塗装されているとあります。 写真募集

 

〔3〕 1962〜1963 昭和の修復

[62-1]   第5空軍立川基地整備隊で修復  62-1

 米第5空軍司令部広報のリード少佐の斡旋により、立川基地整備隊で修理されることになり、1962年12月12日三鷹の運輸省 運輸技術研究所で機体が引き渡されました。修理には、土井武夫氏など旧川崎航空機の技師、 米軍第6100整備中隊グループ(立川基地)、航空自衛隊医学実験グループ、都立航空工業高校(1962.4.1都立航空工業高等専門学校 へ移行)の生徒などが当たりました。

 奉仕作業の内容は、ジュラルミン外皮の腐食除去と磨き上げが主なものでした。この作業の後、機体は組み立てられて、再塗装され、1963年に二子玉川園で一般公開されました

撮影1963/02 提供 HSC-M




修復完成記念に製作されたと思われるネクタイピン 提供 HSC-M

 

[63-1]  1963/02/25 日米の関係者による見学会 立川基地

 1963/03/01付け航空時報によると、この見学会は日米航空懇談会(Tuesday Musical Club)主宰で、テストパイロットとして最初に飛燕に乗った荒蒔義次氏、零戦のパイロット坂井三郎氏も参加とあります。主翼付根のところに土井武夫氏が見えるので、航空情報の写真は、その日の撮影と想定されます。

航空情報1964年4月号

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〔4〕 1963〜1970 修理後の記録 全国展示       3

[63-1]  1963/03/16〜05/31 東京都二子玉川園 航空博覧会に おいて正式に引渡し  

撮影1963/05/04  ハービー

 航空博覧会初日に飛燕の返還式が行われ、在日米軍司令官から日本航空協会荘田会長に引き渡されました。閉会後、日本航空協会は、防衛庁に保管を依頼し、知覧市に貸与するまでの23年間、岐阜基地で管理保管されました。
 塗装はグレイに日の丸、主翼内翼前縁オレンジ、スピナー朱色、プロペラの先端に黒帯と黄色、背面は黒、垂直尾翼に17の文字です。左右水平尾翼の下の胴体に陸軍三式2型戦闘機 飛燕と黒で記入してあります。

  第5空軍スマート司令の祝辞 (副指令のマッコーネル少将代読)

 本日、この世界第二次大戦中に使用された戦闘機の復元作業に誠意をもって協力された日米両国の方々を讃える機会を得たことは私の喜びとするところです。彼らは、航空機設計者にとって素晴らしい作品の見本ともいうべき本機の組立に、各人の技術と個人の時間を進んで捧げられました。彼らはバラバラに破損された多くのかけらからこの復元作業を始められました。(中略) この飛行機がはじめて制作された当時、このように我々一同が会する今日の日を誰が想像したでしょうか。我々はこうして平和なお互いを敬いあう雰囲気の中で日本の航空界の発展を祈ります。この飛行機が末永く、我々の子孫にまで見続けられ、太平洋戦争中、各人の信念のもとに戦い、そして散った両国の勇敢な空の兵士を偲んでいただけるように望みます。

撮影1963/05/01 提供GT

[63-2]   1963/06/07  熊谷基地へ

(注) 二子玉川園航空博覧会終了後、靖国神社に展示される予定でしたが、急きょ熊谷基地に搬入されていたとのことです。(muta)

[64-1]   1964/04/05 熊谷基地開庁記念祭に展示 写真募集

[64-2]   1964/11/03 航空自衛隊創設10周年記念 第3回入間基地航空祭に展示 

撮影青木 忠


撮影大木真一


(グアムの零戦の贈呈式も行われ、初公開されました。零戦は現在航空自衛隊浜松広報館に展示)

[65-1]   1965/04/11 熊谷基地で公開  

撮影PAPPY




 1965年3月、桜がまだつぼみの時ですから3月後半と思いますが、航空自衛隊熊谷基地公開時に室内展示されていた飛燕です。T-33Aのエンジンのカットモデル等が置いてある資料館に展示されていました。

[65-2] 1965/06/06〜20  長野県松本市 県営体育館 航空展覧会に展示

 主催 信濃毎日新聞社・長野県・松本市 航空時報1965年4月1日号 写真募集

[65-3] 1965/夏 東京都新宿西口京王デパー ト戦争資料展で展示 写真募集
   

[65-4] 1965/10/11 大阪市阪神百貨店屋上 

観覧車から撮影 吉田家の父 提供 吉田家



 今のところ、修復後のカラー写真としては最も古いものです。

[66-1]   1966/04/03〜  兵庫県姫路市 姫路城付近 防衛博覧会 

航空情報1966年6月号投書欄より 写真募集

[67-1]   1967/04/14〜06/12  宮城県仙台市 東北大博覧会 

参照  写真募集

[68-1]  1968/03/24〜05/26 東京都読売ランド 航空科学博覧会 

ヒコーキ雲54 写真募集

[68-2]  1968/10/10〜13 第2回東京航空宇宙ショー'1968の時 入間飛行場 に展示(保管?)   

撮影 中里重雄


撮影1968/10/10 ET

 
 私の記憶ではショーの展示の一部ではなく線路脇で自衛隊の退役機と並べて展示されていただけだったようです。

 

ジョンソン(入間)基地の飛燕  西山信二さんからメール

 検索でたどり着き「川崎キ61 三式戦U型改 飛燕の戦後史」を楽しく拝見させていただきました。ところで以下の映像なのですが、冒頭にジョンソン(入間)基地に展示されている飛燕がちらっと映っています。
   http://www.youtube.com/watch?v=vZNrHihPKTo&feature=related

 これは入間基地にあった米空軍家族学校のJohnson High School(197310月閉鎖)の紹介フィルムです。当時友人がこの高校に通っていました。校舎の位置と西武線の関係から言って、飛燕が置かれているのは稲荷山公園駅の南東側の基地構内踏切近くだと思われます。 

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〔5〕 1970〜1984 岐阜基地に展示保管 全国展示    1970

[70-1]   1970〜1984 岐阜基地に展示 、保管及びイベント用貸し出し

提供 杉山ひろかず

 JUNさんからの情報
 1969年7月各務原へ住み始めたときには飛燕はなく、1970〜1971年には確かにこのような状態で展示してありました、翼に乗って遊んだりした記憶があります。1972年秋に各務原を離れる時にはありませんでした。

 浜名湖さんの展示位置の推定
 前後の建物やバックの山(三井山らしい)などから、広報資料館(旧将校集会所)の北側あたりではないかと思われます。

[71-1]1971/05/23 航空自衛隊岐阜基地航空祭 

航空情報1971年8月号投書欄より 写真募集

[72-1]  1972/03/19〜06/11 大航空博覧会  (愛媛県今治市 唐子浜観光センター 主催テレビ愛媛)

唐子浜 撮影かつお 


提供 伊豫西條佐藤日進堂

[72-2]   1972/10/22 航空自衛隊岐阜基地航空祭 

撮影geta-o

[73-1]   1973/05/06 わんぱく祭り 

(名古屋市栄公園)  零戦とともに展示 空のむかしばなし3投書より 写真募集

[73-2]   1973/09/03 航空自衛隊岐阜基地航空祭 

撮影geta-o

[75-1]   1975/04/24〜05/06 藤沢市志沢百貨店屋上に展示 

撮影 Miyazaki


航空情報1975年7月号グラビア (転載許可済み)
  

[75-2]   岐阜基地

撮影1975 岐阜基地 濱野博司

日の丸に白の縁取りが描かれる前です。 

[75-2]  1975/11/30 航空自衛隊岐阜基地航空祭 

撮影 geta-o

 日の丸に白の縁取りががつきました

[75-3]  1975/11/30 岐阜基地でのクローズアップ写真 

提供 マツ・モデルデザイン松野 博


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[76-1]   1976/10/17〜24 国際航空宇宙ショー

(航空自衛隊入間基地) 撮影 にがうり 


撮影 HORNET


撮影  PAPPY 



撮影 ET

[77-1]  1977 岐阜航空祭 77

撮影 高田和彦







撮影KUPANBA
    

[78-1]   1978/05/14 ナタリー遊園地航空博 

(広島県佐伯郡大野町) 撮影幸田恒弘

 F-104J F-86F ケイデットJA3641などと一緒に展示されました。プロモーター役の人又は企業がいて、各地の遊園地やイベントに売り込んでいたのではないでしょうか。

[79-1]   参考1979/03/15〜06/03

エキスポランド「世界の飛行機博」 (飛燕は展示されていなかった) Bf109,He162、V1,スピットファイア、秋水、カーチスプッシャー(以上マロニー)、桜花(大阪エキスポランド展示)

[79-2]   1979/09/15〜11/30 愛知県犬山ラインパーク「航空博」 

犬山ラインパーク航空博のチラシから  提供 阿施光南

 
Bf109,He162、V1,スピットファイア、秋水、カーチスプッシャー(以上マロニー)、桜花(大阪エキスポランド展示)、飛燕 写真募集F-104DJ、F-86F

[80-1]   1980/03〜06 熊本県三井グリーンランド「航空博」 

撮影まさ 

 
Bf109,He162、V1,スピットファイア、秋水、カーチスプッシャー(以上マロニー)、桜花(大阪エキスポランド展示)、飛燕、F-104DJ、F-86F
 この頃に塗装が大きく変わり、全体が暗緑色(主翼下面はグレイ)で、スピナーが白色、胴体日の丸に白色の帯と戦闘部隊帯がまかれ、尾翼に第244戦隊マーク (らしきもの)が記入されました。 

[80-2]   1980/07/29〜09/07 池袋三越 航空博覧会 主催財団法人日本航空協会 後援朝日新聞社
 
同時に展示 FA200(JA3241)、F-104DJ(46-5020)、グレートレーク

撮影インプラント


撮影大久保滋幸

[80-3]   クローズアップ

撮影YS45 

クリックして拡大画面をご覧ください


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[81-1]   1981/08/01 空のフェスティバル  (桶川飛行場) 

撮影インプラント 
 

[83-1]  1983/08/13 空のフェスティバル (桶川飛行場) 

撮影インプラント

[83-2] 1983〜1985 河口湖自動車博物館に吊り下げ展示 

パンフレットから  提供 FA300

 ちょっと見難いですが、ホール1の天井に飛燕が吊り下げられています。約2年間展示されていたようですが、詳しい時期は不明です。
 日本航空協会との貸借契約によれば、期間は1983/08/15〜1984/08/14となっていますが、実際の返却は1985年まで伸びた模様です。

[85-1] 1985/09/29 岐阜基地航空祭   翌年に知覧へ送られるため、恐らく本州における最後の展示になったものと思われます。

撮影はねぶた

撮影 高田和彦

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〔6〕 1986〜2016 知覧市へ期限付きで貸し出し 

[86-1]  1986/01/28 岐阜基地から知覧へ輸送のため解体して積み込み  

提供 杉山ひろかず










[86-2]  岐阜〜知覧の途中で、迷彩に塗り替えられた模様 写真募集

[86-3]  1986〜現在 知覧特攻平和祈念館 

撮影にがうり (1998/11/30 許可を得て撮影)


                    

 少飛会の強い要請により、日本航空協会が知覧市に貸与し、知覧特攻平和祈念館に展示されました。

 塗装や人形は、館の性格上、知覧から飛び立った特攻機をイメージしておりますが、何故244戦隊なのかなどなど、論評の対象外という感じがします。一応、屋内に安住の場所を得て、機体そのものの管理については心配ないようです。

 しかし、これで良いのかと問われると、1962年の修復の際に考証されたであろう本機の来歴が全く無視された形になっており、感心しません。できうれば特攻という概念に直接関係のない施設で、飛燕のすぐれた技術を勉強できるような環境に置いてやりたいと思うのであります。

 なお、協会と知覧市の契約は1年更新となっています。
     

              

〔7〕 お便りなど5

 

或る戦闘機の戦後史に寄せて  

陸軍飛行第244戦隊史 著者   櫻井  隆    

櫻井さんの ホームページはhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/

                

新宿西口
 私が初めて本機を見たのは、昭和40年の夏、新宿西口京王デパートの入口(地下)です。ちょうど終戦20周年ということで開かれた戦争資料展に因んだものでした。
 まだ無塗装アルクラッド板の地肌が多かったセスナを見慣れた目からすると、大変厚化粧で飛行機特有の質感が感じられず、色も陸軍機では有り得ないような白に近い色で、どうにも違和感がありました。

 実はそこからテレビ中継があり、「この飛行機に最も縁の深い人…」という説明とともに、小林戦隊長の奥様が登場されたのを記憶しています。後から聞きますと、その資料展に戦隊長の日記を出展しており、体当りの勇士である板垣、中野両氏も番組に出演されていたそうです。

244戦隊と3式戦2型
 現在知覧で244戦隊の仕様になっているのは、単に、244戦隊が有名で知覧で活躍したから…ということなのでしょうが、2型が知覧にいた可能性は、なきにしもあらずです。
 それは、244戦隊にも2型が、ごく少数ですが配備されていたからで、戦隊の3式戦は後に振武隊6個隊に転用されましたので、2型が特攻用機となって知覧に来た可能性は、整備の問題からすれば極めて低いものの、皆無とはいえないと思います。

製造番号
 出版物には本機の製造番号を5017などと書いてありますが、これは、1型丁が4901まで、2型は5001以降の番号が付けられたという説から、5000+17=5017という類推で、実際には、1型丁の番号は5000以降も存在しています。
 想像ですが、おそらく、1型丁の末期製造分と2型の生産ラインは併設されていて、番号は双方に割り振られたのではないかと思います。

 番号といえば、ミケッシュ氏のまとめた残存日本機リスト(BROKEN WINGS OF THE SAMURAI 所載)には、本機のシリアルは「5070」となっており、もしこれが正しいとすると「17」は何なのか?ということになってしまいます。

塗装
 終戦後に撮られた塗装の状態が審査部時代のままなのか…という点は、私は疑念を感じています。
 前述のように本機の番号も不確定なので、製造時期がいつなのか断定できませんが、1型丁も末期製造分では、暗緑色ベタ塗り迷彩(5式戦と同じ)で出荷されていたはずで、2型も同じ時期に製造されているのですから、工場でこれと同じ塗装が施されていたと考えるのが順当だと思うのですが。

 審査部の2型は、常陸教導飛行師団の2型とともに帝都防空戦には度々出動して高性能ぶりを発揮していますが、同じく審査部から出動していた1型の1機は、暗緑色ベタ塗りでした。
 また、19年中はともかく、20年春以降、小型機空襲が日常化してからは、対空襲対策として、各部隊とも飛行機の迷彩徹底および分散秘匿に努めており、終戦時に無塗装であった機体はごく僅かです。

何故残ったのか
 武装解除後、占領前の福生(多摩)飛行場に整然と置かれていた完整状態(だったはず)の飛行機群は、空中写真から読みとれるだけでも120機はありますが、その中から何故、3式戦2型とキ−115だけが無傷で残されたのか、不思議なことです。

 これはたぶん、この2機が米本土へ持ち帰る候補になってはいたものの、結果として他の飛行場の機体(3式戦2型は伊丹から4機、キ−115は太田から)が選ばれ、船には乗せられなかった。しかし、大多数の機体がブルドーザーで飛行場外に押しやられ、本格的に破壊された時期には、まだ候補として温存され、整備のためエプロンに置かれていたからではないかと推察します。

 もしそうだとすれば、本機の塗装は、この整備の際に落とされた可能性もあり得ると考えます。また、製造番号が不明確なのも、審査部が持っていたはずの数機の3式戦2型の程度のよい部分を集成した結果ではなかろうか…とも、推理はできます。

 占領軍部隊の進駐は、厚木のように、いきなり多くの輸送機が来たのは全くの例外で、それ以外の全ては地上部隊がまず制圧し、第2段階の飛行部隊進駐に備えて応急の飛行場整備にあたりました。
 占領軍が撮った写真に写る日本機の多くは既に破壊されていますが、これは、飛行場整備の際、滑走路から最も遠い場所への乱暴な移動作業によって破損した結果です。これには、わざと破損させて無力化する意図もあったと思います。

参考までに占領軍部隊の進駐状況は次のようです。

多摩飛行場(航空審査部)9月3日深夜から4日午前、第1騎兵師団の兵員2300名
立川飛行場、同じく 3300名
調布飛行場、同じく 1000名
羽田飛行場、9月13日、900名

日替わりメモ676番 2005/01/22  

守屋 憲治さん(千歳市)からのお便り

川l崎キ61三式戦改飛燕の戦後史について
  トップの航空博覧会(1963年二子玉川園)における機体は、私が中学1年当時、小学館の児童生徒向けタブロイド判新聞の第一面全面を修復なったカラーで飾り、私を航空フアンにした記念すべき美しい姿。巻末に「この飛燕に関して引き続き皆さんの情報を待ちます」とあるので知り得ていることを連絡します。

 1945〜1953上段の写真  石で丸く囲った中に展示してあります。この写真は横田基地のいずれかのゲートのロータリーに展示した時のものでしょう。キー115「剣」は、第3ゲートのロータリーに同様の形で展示されていました。

 1945〜1953下段の写真  垂直尾翼の方向舵の塗色が機体と異なることがわかります。これは上段の位置=ロータリーから下段=木造兵舎近くに移動後の写真です。兵舎の火災によって方向舵と昇降舵が燃え、日本人駐留軍要員が修復した後の写真です。

 以上のことは昭和40年頃の雑誌『丸』に写真と記述がありました。私を飛行機フアンにした機体だったので鮮明に記憶しています。蛇足ながら、知覧において「飛燕」とともに展示されている四式戦「疾風」が入間飛行場で飛行したときの感激は今でも忘れることができません。

日替わりメモ20100303番

○ 外国から特別展示記事 或る戦闘機の戦後史 飛燕にリンク

 アクセス解析をやっていた時に、「特別展示記事 或る戦闘機の戦後史飛燕」が3番目に閲覧が多いということは既に書きました。そのほとんどは、同好の人々のホームページからのリンク若しくはYahooやGoogleで飛燕を検索してのものですが、時折、The Many Faces of TONY "5017" By Don Marsh and Jim Long というホームページからのジャンプがありました。
 http://www.j-aircraft.com/research/jimlong/tony/tony.htm

 不思議に思って開いてみますと、確かに this list also containing a chronology of events in the life of Tony No. 5017 from a Japanese researcher, but in the Japanese language only: (日本人の研究者によるトニーNo.5017の年表を含むリスト、ただし日本語オンリー)なる言葉を添えてリンクされています。

 全体は、英語力のない私の判読ですが、日本ではいまだに疑問視する人もいる「17」なるナンバーをもって「serial number 5017」と決めつけていること、全国巡回でぼろぼろになっていたのを第5空軍が修復したのは、グアムの零戦が三菱で復元されて、1964年の航空自衛隊創立10周年記念式典に展示されるのに合わせたものであること、岐阜で福生の塗装から飛行第244戦隊塗装に塗り替えられた経緯など興味ある検証がたくさんあって、この機体の来歴に彩りをそえています。

 また、Faces of ‥とあるように、横田から知覧に至る塗装の変遷の6枚のイラストはよく描けているように思います。「17」が赤から黒に替っているし、外人が最も苦手とする漢字も尾翼下の陸軍3式二型戦闘機飛燕という文字は正確です。

 記事の中に、well-known writer Koji Takaki 及び Mr. NAKANO, who is a glider instructor in Tokyo(知覧塗装の張本人)  という日本人の名前も出てきますが、尋ねたところ不明です。心当たりのある方はお知らせ下さい。

 また、アメリカからリンクがされたのは、一つの超貴重な機体を時系列で大量に紹介している類例のない試みが注目を集めていることにほかなりませんので、もっと普及させるために、堪能な方に英語版を作って頂けないものかと思います。誰か手をあげてくださいな。 

日替わりメモ20100808番

○ 飛燕の戦後史 日比谷と谷津遊園の写真を追加

 「 川崎キ61 三式戦U型改 飛燕の戦後史」を開始してから5年と8か月になります。掲載した写真は130枚に達しました。大東亜戦争後に残る旧日本軍の航空機を1機にしぼってここまで詳細に追ってこれたのは、皆さんが関心をもって情報を送ってきてくれたからです。出版プロといえども真似ができない域に達しています。当の飛燕も感謝しているのではないかと思うのですが、如何でしょうか。

 反面、彼は、知覧平和特攻祈念館の奥で居心地の悪さに泣いているかもしれません。 それは、部屋全体と機体が悲しい悲劇の旅立ちというコンセプトに充満されていて、彼の戦闘機としての性能や役割がまるっきり引き出されていないからです。
 福生の陸軍航空審査部飛行実験隊でテストしていた黒江保彦さんは、キ61改について『これはまれにみる傑作機のひとつである』と書いています。(1978/06刊 世界の傑作機99 川崎三式戦闘機飛燕17ページ)

  悲劇の主人公のコンセプトも間違いではないですが、傑作機たる真の姿が引き出せるような展示にしてこそ、唯1機しか残っていない機体に対する精神的かつ科学的な正しい対処方法であると信じます。

 日本航空協会の年次報告書には『旧陸軍三式戦闘機「飛燕」を知覧特攻平和祈念館に引き続き貸出した。』とあります。協会が主体的に貸出を継続したような表現ですが、返して貰えないから書類上そうしているだけのことではありませんか。来年の報告書には『返還させた』と書く勇気をお願いしますよ。

 知覧市の誰かが、建物を壊さなければ引き出せない、できるならやってみろと開き直っているとか、噂に聞きました。横田基地から日比谷公園へ運搬するのに、道路幅がないから主翼を切断された前歴もある機体です。どう修復されているのか知りませんが、機体をばらして館外へ出すのは技術的にそう面倒なことではないと思います。

 ともかく、飛燕の故郷各務原市へ帰らせて、あの特攻スタイルも消し、設計者の土井武夫技師も手伝っている復元当時の美しい姿に戻してやりたいものです。

日替わりメモ2011/02/04

〇 三式戦飛燕と五式戦を担当した東大航空学科の短現へのインタビュー

 各務原の小山さんが、東大から短期現役将校として川崎航空機の陸軍出張所に配属された故・松井辰彌岐阜大学名誉教授にインタビューした記録を公開しています。
http://koyama-s.la.coocan.jp/KASM_volunteer/ohanasi/016/matsui_201003.html

 土井武夫さんの下で、飛燕の主翼設計などに関わった話を中心にして、これまでの書籍などには出ていない事柄やエピソードが豊富に語られています。三式戦と五式戦のみでなく、土井さんの人柄や当時の川崎航空機各務原工場の様子もよく分かります。ヒコーキマニア必見です。

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