航空歴史館 | 掲載15/01/01 更新22/02/06 |
テーマスイラスト 古谷眞之助
協力者 |
イガテック、伊藤憲一、入間のY氏、インプラント、大木真一、かかし、かつお、金澤理勝、幸田恒弘、コナミ、こんどる、櫻井定和、シシオ、下郷松郎、杉山弘一、たか、高尾 眞、高田和彦、高松龍、谷本、永島東洋輝、なべさん、にがうり、丹羽八十、ぱぶりか、林寿彦、飛行浪人、古谷眞之助、まさ、
山崎正博、山本晋介、遊佐豊、横川裕一、寿( kotobuki)、A-330、CTsuga、DOC.K、ELINT人、geta-o、HAWK、JO1RBO、KUPANBA、Kyou、MAVERIC、NAYER、NPC、OCC、Ogurenko、OKUBO、PAPPY、RENAT、SHADOW、TADY
BEAR、TORN、YUSIS、YS45 【まとめ佐伯邦昭】 |
参考文献 |
第二航空団広報室、酣燈社、文林堂、世界の傑作機103F104スターファイター 104ロッキード104J/DJ"栄光" AIR JAPAN、月刊航空情報各号 その他多数 |
総目次
F-104J | 輸入機の再組立及びノックダウン生産 20機 26-8501〜36-8520 |
量産機(当初発注) 160機 36-8521〜56-8680 | |
量産機(第二次発注) 30機 76-8681〜76-8710 | |
F-104DJ | ノックダウン生産の練習機 20機 26-5001〜46-5020 |
このページ | F-104J/DJの略年史 | |
各部隊のF-104J/DJ使用期間 グラフ |
1956 | 航空自衛隊が次期戦闘機の選定作業を開始 |
1957/02 | 航空幕僚監部が機種決定に関する要望書を内閣に提出 速度マッハ2、高度18000m等 |
1957/05 | 国防会議において次期戦闘機800機分の予算580億円を決定 |
1958/08 | 防衛庁技研の永盛義夫空将補を団長とする調査団をアメリカに派遣 ロッキード、ノースアメリカン、コンベア、ノースロップ、グラマン各社で調査 |
1958/08 | グラマン社がF11F-1の選定に向けて工作開始 ロッキード社との間で激しい争いが始まる |
1959/01 | 佐薙航空幕僚長を団長とする調査団をアメリカに派遣 松前防衛部長らがF-104Bに試乗 報告データでは、グラマンF11F-1が有利であった |
1959/04/12 | 国防会議において次期戦闘機の機種をグラマンF11F-1に内定 |
1959/08/19 | F-X国産価格検討会議開催 以後国会でグラマン:ロッキード論争が続く |
1959/08 | 源田航空幕僚長を団長調査団をアメリカに派遣 木村秀政氏ら民間人を含む F-102、F-104、N156Fに試乗 |
1959/11/6 | 国防会議において次期戦闘機の機種をロッキードF-104C(F-104J)と決定 |
1960/01/26 | 閣議でF-104Jの価格決定 総額968億円 日本側負担698億円 米側負担270億円(7500万ドル) 1機当たり4億3200万円 予備部品を含むと4億8384万円 |
1960/04/15 | 藤山外相とマッカーサー駐日大使が米側負担270億円(7500万ドル)の公文書交換 |
1960/06 | 官民の調査団がロッキード社バーバンク工場で国産化の審査を実施 |
1960/07 | ロッキード社バーバンク工場でF-104Jモックアップを審査 |
1960/07/22 | 防衛庁が新三菱重工業と川崎航空機に国産準備を指示 |
1960/08 | 神吉三佐らがエドワーズ基地で訓練開始 |
1960/09 | 航空自衛隊がJ79-GE-7をJ79-GE-11Aに変更、アレスティングフック装備に仕様を変更 |
1960/11 | 実験航空隊長らを西独に派遣 F-104Gの運用状況を調査 |
1960/11/06 | 防衛庁防衛一課課長らをバッジシステム調査のためアメリカに派遣 |
1960/11/11 | 官民によるF-104J国産化委員会設立 |
1960/11/17 | 防衛庁が三菱電機、日本電気、東京通信機にF-104電子機器生産を内示 |
1960/10 | 航空情報1960年12月号国内ニュース |
1961/03/31 | 正式契約 新三菱重工 F-104 200機481億円、石川島播磨重工 J79 160基 167億円、各社電子機器59億円 計698億円 |
1961/05/11 | バーバンク工場でF-104J初号機(3001)ロールアウト 地上試験開始 |
1961/06/30 | バーバンク工場でF-104J初号機(3001)初飛行 チャールス セッチェン操縦士 |
1961/05 | ノックダウン生産用の部品第一便が名古屋港に泊着 新三菱大江工場と川崎航空機岐阜工場へ搬入 |
1961/07 | 操縦士、整備要員がパームデール基地やジョージア基地で訓練開始 |
1961/11 | 米空軍F-104生産状況調査団が三菱、川崎などを調査 |
1961/12/21 | 現地でF-104J(3002)とF-104DJ(5401、5402)を新三菱重工が受領 ロッキード籍のF-104J(3001、3003)と共に現地訓練に使用 |
1962/02/08 | フライングタイガー機によりF-104J(3002)とF-104DJ(5401)が名古屋空港に到着 |
1962/03/08 | F-104J(3002)が26-8501のナンバーで初飛行 ロ社ロス ディール操縦士 |
1962/04/01 | 新三菱重工小牧工場でF-104Jの航空自衛隊納入式挙行 神吉三佐が26-8501で飛行を披露 |
1962/04/01 | 小牧基地に実験航空隊所属の臨時F-104訓練飛行班を編成 |
1962/09/17 | F-104J1機とF-104DJ2機が小牧から千歳基地に初移動 以後生産分が続く |
1963/03/05 | 千歳基地に第2航空団第201飛行隊新編、F-104マザースコードロンとなる |
1963/11/03 | F-104J 50機継続生産を決定 |
1964/03/31 | 新田原基地に第5航空団第202飛行隊新編 F-104の初の実戦部隊 |
1964/06/25 | 千歳基地に第2航空団第203飛行隊新編 |
1964/10/01 | 第5航空団第202飛行隊 アラート任務に就く |
1964/12/01 | 新田原基地に第5航空団第204飛行隊新編、F-104マザースコードロンを引き継ぎ |
第2航空団 アラート任務に就く | |
1965/03/14 | 三菱重工業 F-104J 200機完納式 |
1965/03/31 | 小松基地に第6航空団第205飛行隊新編 |
1965/12/08 | F-104J 第2次生産分30機を契約 149億円 |
1965/12/20 | 百里基地に第7航空団第206飛行隊新編 |
1966/03/31 | 百里基地に第7航空団第207飛行隊新編 |
1974/10/01 | 第2航空団第201飛行隊解散(後にF-4EJによる第201飛行隊復活) |
1978/11/30 | 第7航空団第206飛行隊解散 |
1981/06/30 | 第6航空団第205飛行隊解散 |
1982/12/21 | 第5航空団第202飛行隊 F-104からF-15Jに機種改編 |
1984/03/24 | 第2航空団第203飛行隊 F-104からF-15Jに機種改編 |
1985/03/02 | 第5航空団第204飛行隊 F-104からF-15Jに機種改編 |
1986/03/19 | 第7航空団第207飛行隊解散 |
各部隊のF-104J/DJ使用期間 使用期間
西暦 |
62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 | 70 | 71 | 72 | 73 | 74 | 75 | 76 | 77 | 78 | 79 | 80 | 81 | 82 | 83 | 84 | 85 | 86 | 87 | |
第201飛行隊 | 千歳基地 | ||||||||||||||||||||||||||
第202飛行隊 | 新田原基地 | ||||||||||||||||||||||||||
第203飛行隊 | 千歳基地 | ||||||||||||||||||||||||||
第204飛行隊 | 新田原基地 | ||||||||||||||||||||||||||
第205飛行隊 | 小松基地 | ||||||||||||||||||||||||||
第206飛行隊 | 百里基地 | ||||||||||||||||||||||||||
第207飛行隊 | 百里基地 | 那覇基地 | |||||||||||||||||||||||||
実験航空隊 | 岐阜基地 実験航空隊 航空実験団 飛行開発実験団 |
更 F104J 就役年数について F104Jの運用年数についてまとめてみました。 就役年数分布図 横軸は就役後の運用年数、縦軸が年数に対する機体数です。
機体番号順就役年数散布図 機体の就役順で就役年数に偏りがあるか確認しましたが就役年数に差はありませんでした。
グラフ作成:イガテック (2020/10/4) |